何かを選ぶ権利、善と悪、要は父権と自己決定権のバランスのことだろう。人が自然権を国家に信託しているからこそ共同体が成り立つのであってその逆はない。起源が神だろうが人だろうが何かを決める(積極的)自由を制限しているから(他者危害原理に従い)大人しくしている。殺人を犯した人間であっても寛容でなければならない。バージェス自身がカトリック教徒だから、そういった社会契約論的な前提を敷くのは当然のことだと思う。それが無意識だとしても。
神権も人権も理性や芸術を信じているからこそ成立するものであって、そういった信頼なしに自由主義は成立しない。拠所をうしなった社会は独裁や相互管理社会を許してしまう。(最終章削除版に従えば)アレックスは更正しない。体制の勝利とも読める。しかし、それすら罠なのではないか。理性を、良心を、芸術の力を我々は信じることができるだろうか。
そして、これが聖典化しているのは”ファイトクラブ”という闘技場モドキとテロ組織モドキが怒れる若者を反映しているように見えるからであって、ジェネレーションXの鬱屈とは関係がない。だって怒りの矛先がそもそも存在しないのだから。ファイトクラブの真似事にパラニュークがキレるのも当然だけど、この作品の射程も案外短いよなーとか思ってしまった。アメリカでの受容にも言えることではあるけれど、この国での受け入れ方は特にそれを表象しているのではなかろか。
しかし、決断することはそんなに大切なことなのだろうか。乗っ取った飛行機の中でくつろぎながらディナーを楽しむ姿はマナー講師を務めていた時の物質主義的な態度と瓜二つだが、そういった贅沢をしている時だけ彼は微笑んでいる。ファイトクラブの”僕”と違って資本主義に不満を感じているわけでもない。(ちゃんと眠れているようだし)むしろ物語ること、何者かであること、何かに歯向かう事に疲れているようにも読めるのでは
そういうわけで僕はパラニュークが出した結論よりもフィンチャー版の世紀末的/反道徳的な結末の方が好きだな。映画もロマンティックではあるけれど、あれくらい破壊的であってほしい。現代のアメリカを舞台にするなら尚更。
主題について思うところはあったけれど、細部は相変わらず素晴らしい。高級レストランの料理に様々な体液を混ぜ込んだり、金持ちが痩身治療で使った脂肪で爆弾を作るといった”製造技術そのもの”に皮肉が秘められている。小道具や文体そのもの力も大きい。
「カットアウトチップを埋め込んでもらったあとは、無料で金がはいってくるみたいなもんだったもん。目が醒めてヒリヒリすることもあったけど、それだけのこと」。ガジェットも状況も非情ではあるけれど、そういった同情の前にモリイ自身の口から唐突にこれが語られる事にすごみがある。これこそが機械の、人間の視点ではなかろか。(この場面でケイスの眼差しがどこにあるかも重要)
基本的には(映画的な意味での)ジャンプカットの積み重ねだけど、たまに電脳空間らしさ感じさせる文章が出てくるのも好きだった。「《広》プログラムが汚れた雲から噴出し、ケイスの意識は水銀球のように分裂して、暗い銀雲の色の果てしない浜辺の上で弧を描く。視野は球状で、まるで球体の内側に網膜をはりめぐらしたよう。その球体がすべてを内包しているが、すべてのものが数えつくせるだろうか」とか。ボルヘスの円環の廃墟やバベルの図書館、押井版攻殻とかでもこういう空間的な広さを表現できている作品はあるけれど、ここまで尖がってなかっ
日本でもlainやエヴァで電線が持て囃された時代もあったわけで、こういうのは無意識に広まるものなのかもしれない。(そして潰える)。そういえば007にも電線が張り巡らされた九龍城が出てきたなぁ……スカイフォールだったかな。
いちばん客観的なのはディレイニーだが彼もガジャットの有無、定義よりもジャンル越境性やポストモダンの視点を重要視している。ただ、フェミニストSFによる性差解消、テクノロジーの優越こそサイバーパンクの起爆剤だったという指摘は面白かった。
サイバネティックスであるよりも文体に重きを置いているのはみんな同じ。彼らからすれば電脳空間や義体を題にとった作品はそのような”様式”であって周辺的ですらある。ギブスンの文体、視点が極めて主観的なのにもそういう理由で、ガジェットを軸にした作風が他の古典的領域に飲み込まれるのを警戒してのこと。逆にヴォークトやバロウズ、ハクスリーらがサイバーパンクの始祖ととされるのは彼らは主観、超越的な視点を持ち、囚われのない作品を書いていたからなのだろう。
あとフリーメイソンっぽい秘密結社風を吹かせておいて激戦を繰り広げるのもなんだかなあ……ここにきて交代制の反動勢力ってのも違和感がある。せっかくディックから引き継いだイナゴ(USJ)があるのだから、それで革命のあり方や体験の継承について語って欲しかった。攻殻2ndという前例もあるわけだし
というかUSJに比べて日帝である必要があまり感じられない。日本軍が舞台なのに軍紀はアメリカ風だし表記もらしくない。ゲームが重要なガジェットになっているけれど、それが日本を表す象徴になっているわけでもない。アメリカの戦争小説の作法で派手な戦闘を描く、のであれば宇宙の戦士に続けばいいわけで、ドイツ側に視点を変えるか、いっそ別な作品として発表すればよかったのではなかろか。戦争小説として楽しく読んだからその辺が気になった。
たぶんSF屋への受けは悪い。サイバーパンクにせよ終末SFにしろ、現在の人間の想像とはかけ離れた世界を提示するジャンルだけど、この作品はずっと人間の価値観の範疇で技術が運用している。世界の終わりですら自作自演(悪い意味の奇跡は起こる)。しかし、サイバネティックスや終末の風景を土台にした、それを当然のものとして受け止めた思索は見事なもので人物の身勝手な行動が技術をどんどん引っ張っていく。最先端の技術で快楽を貪る、というのは陳腐に見えて実はかなり未来的なのだ。そういう意味ではかなりギブスンに近
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「カットアウトチップを埋め込んでもらったあとは、無料で金がはいってくるみたいなもんだったもん。目が醒めてヒリヒリすることもあったけど、それだけのこと」。ガジェットも状況も非情ではあるけれど、そういった同情の前にモリイ自身の口から唐突にこれが語られる事にすごみがある。これこそが機械の、人間の視点ではなかろか。(この場面でケイスの眼差しがどこにあるかも重要)
基本的には(映画的な意味での)ジャンプカットの積み重ねだけど、たまに電脳空間らしさ感じさせる文章が出てくるのも好きだった。「《広》プログラムが汚れた雲から噴出し、ケイスの意識は水銀球のように分裂して、暗い銀雲の色の果てしない浜辺の上で弧を描く。視野は球状で、まるで球体の内側に網膜をはりめぐらしたよう。その球体がすべてを内包しているが、すべてのものが数えつくせるだろうか」とか。ボルヘスの円環の廃墟やバベルの図書館、押井版攻殻とかでもこういう空間的な広さを表現できている作品はあるけれど、ここまで尖がってなかっ