
また、たびたび統治者の視点にたつことを非難するが、同時に読者に対して、著者があげた例ほど弱者ではない人が弱者の視点に立つことを推奨するのは矛盾している。弱者になり変わることも同じように非難しなくてはいけない。 そもそも「統治者」とされる人の生き生きとした記述が存在しない。 著者が平均な人はいないので、経験が削られるというのなら、典型的な統治者だって存在しないだろう。
客観性は「だいたいみんな」で信じてもよいが、非客観性(著者は主観ではないと主張しているので)は「あなたはそうなのね」と信じるか、嘘をついていると信じないかの2択になる。そういう意味ではまだ「客観性」(客観よりという意味で、客観そのものではないことは同意する)の方が信じるに足りるだろう。 「あなたはそうなのね」と信じられる根拠を示すべき。 結論からすると、客観性の落とし穴を書こうとして、非客観性のより大きな落とし穴を記述した本であると考えることになった。
また、たびたび統治者の視点にたつことを非難するが、同時に読者に対して、著者があげた例ほど弱者ではない人が弱者の視点に立つことを推奨するのは矛盾している。弱者になり変わることも同じように非難しなくてはいけない。 そもそも「統治者」とされる人の生き生きとした記述が存在しない。 著者が平均な人はいないので、経験が削られるというのなら、典型的な統治者だって存在しないだろう。
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客観性は「だいたいみんな」で信じてもよいが、非客観性(著者は主観ではないと主張しているので)は「あなたはそうなのね」と信じるか、嘘をついていると信じないかの2択になる。そういう意味ではまだ「客観性」(客観よりという意味で、客観そのものではないことは同意する)の方が信じるに足りるだろう。 「あなたはそうなのね」と信じられる根拠を示すべき。 結論からすると、客観性の落とし穴を書こうとして、非客観性のより大きな落とし穴を記述した本であると考えることになった。