眺めることを可能にする、大変優れた知的装置と書く。ただ、欠点は、この作法に習熟して、あらゆる問いについて「問いに対して問いで応じる」ようになってしまうと、問いかける側の人間がだんだんいらついてきて、そのうち「バカにすんな!」といて手を出してくることがあるそう…んー、でも、自身の中での内省には使えるんでない?と感じている。
191頁『バブル期に就職した私は、頑張れば頑張るほど、いい結果が出ると信じていました。たくさん時間を使えば、たくさんものを得ることができる。未来のために、今はしんどいことを我慢する。どうやらその方程式はもう、通用しない時代がやってきています。自分の時間や心地よさを犠牲にして、目的地まで走り抜く、というベクトルでは、本当に欲しいものは手に入らないのかもしれない…。というよりも「頑張って結果を出した」その「結果」が、幸せを運んできてくれるわけではないのかも』。これも、板野の事務所で感じたを不思議な感覚だ。
192頁『よくよく紐解いてみると、結局私にとっての「結果」とは「お金」でした。老後が心配だから、ちゃんと仕事で成功して、お金を稼いで、安心したい。それが、心の底にある本音です。だとすれば、それまでの年月は、ひたすら「準備期間」になってしまいます。このままじゃ、私は一生準備だけで終わってしまう。そう考えるとなんだか寂しくなってきました。』同感だ。だから私、お金より日々の心の満ち具合で転職した。結果、今、毎日、幸せだ♡
国民生活に必要なもミニマムは国内で生産ができる。それだけの資源があり、技術があることは国民国家が生き延びるためにはどうしても必要な「保険」だろうとぼくは思っています。「よそから買う方が安い」ものでも、それが手に入らない場合を考えたら、「うちで手作りできる」体制を整えておいた方がいい』。この件はボランティアでご一緒した高齢者たちの電気の修理術などなどを目の当たりにして、自分の生きる力のなさに愕然とした経験を思い出す。本当は私、何でも自分でできるようになりたい。生き物として強くなりたいのかも。
そう思いつつ、157頁『ぼくはできるだけ多くの人に依存して暮らしたいと思っています』ここも付箋貼るという(笑)『鷲田清一先生はそういうあり方をーのことを「相互依存」の方が人間の生き方として自然ではないか』と。ここにも惹かれる。 163頁『実際に門人たちから話を聞くと、学校や職場のストレスで「壊れる」寸前に、すがりつくように合気道に入門してきて、世俗の社会とは全く異質の基準で人間を迎えるこの場に身を置いて、ようやくほっとできた…という述懐に触れることがまれではありません』この件は私のヨガへの導きと同種感。
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