形式:文庫
出版社:中央公論新社
◯美は材質やささやかな体験から見る、制作の順で見るのが自然/茶の湯は消極的な暇つぶしの具ではなかった/言語過剰という現代審美病/土地を慎重に見る荷風の態度/触るように見る◯生活された孤独がない◯ランボーや菊池寛/契沖が黙ったのは天台僧だから/エリオットは詩劇が面白い◯私生活の根が無い報道/人間の学としての社会学、歴史感覚の涵養/歴史は経験や解釈=言葉に現れる/職人の素材としての虚子の文章/日本人としての意識・反省力―古事記、訓読/モースがダーウィン、フェノロサがスペンサーを輸入
◯江戸の学者の学問への喜び/漢意を執拗に排斥するのは、理屈だけで満足する心の傾向を突破して、学問に還るため/真淵への激越な反論の後も続く師弟関係、低いところから始めよ/肉声=言葉の確信/ベルクソンの常識人の見方はイマージュ論→宣長のカタチ/阿礼や女房の声で聞くという境地◯読者への語りかけという変化◯文字を頼りにし過ぎないこと→ソシュール的/小林の内的集中→マラルメの少しづつ推量する喜び→ソシュールの言語=名辞集の拒否
(メモ)小林秀雄が骨董について述べる「手触り」とか、「土から出来上がりの方向へ見る」とかいうことは、事物への接し方としてよく理解できる(ハイデガーに通じる)。しかし、「それを理解できないのが「インテリ」だ」とつなげられると、途端に発言は下品になる。江藤淳も自ずと、高齢化した小林の品性下落に加担する。ああ二人の男根主義者、などと考えるわたしは下品で、いやになつてしまふのであつた。
悩んできた。音楽も料理も絵画もその他すべてそう。本書でその一つの象徴として三島由紀夫を語るときの、小林秀雄の哀しさ、真剣さが、江藤淳とぶつかった時のあの緊張感は痺れたなあ。
慣れない領域も勉強して一通り語れるようにしようなんて色気はない。当否はともかく自身の感覚を最重視して価値判断を行うこと。江藤とは違い、本性的に遊興の徒であること。これくらいかな。対する江藤。やはり精神に不安定な部分がある。親族とその歴史が宿命的に自己の未来を規定する、と語る部分(p.69)は、いささか異常の感がある、敗戦直後の細かい事実に首を突っ込んでアレコレ調べる動機も不可解だし、温厚な顔をして実は偏執性を秘めたところに江藤の魅力はありますね。
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