形式:新書
出版社:集英社
形式:Kindle版
「毒死列島身悶えつつ野辺の花」という一句は福島の汚染水を詠んだような句でドキリとさせられる。そういうところが巫女的なのかなと。
https://note.com/aoyadokari/n/n42abf4563bd0
石牟礼は能を2作書いている。「不知火」「沖宮」。能役者にとっても異質な作品だったらしいが、対談の中で石牟礼が過去に能を1度しか見ていないことを知って田中は絶句する。田中にしても石牟礼の描く伝統的な能表現がどこから来たのか全く分からないと。石牟礼本人もどこから出てきたんでしょうねと事もなげにしている。「天の言葉を預かる人」石牟礼らしいエピソードだと思った。全体として誠意を持った怜悧な表現で好感を持てた。本を読んで遠い昔わずかな時間でも著者と同じ空間・時間を共有したことを知った。これは個人的な感慨。
「もだえ神」という言葉が何度も出てくる。神が悶える、この矛盾した現象は、だからこそ人間にも宿る。もだえが共鳴を可能とし、巫女となりて『苦海浄土』が書かれた。しかしそれだけでは『苦海浄土』が世界文学には成り得なかったのではないか。魂の行方を冷静に見る「もう一人の道子」の存在を田中は説く。本書は『苦海浄土』と『春の城』の二作を柱に語られている。田中によれば、『春の城』は時空を超えて甦った遠い時代の『苦海浄土』なのだという。(つづく)
この二作が強く共鳴し合っているのであれば、いずれ『春の城』を読まねばならないと改めて思わされた。
(2)人類の歴史の大半が、戦争と権力闘争、自然破壊の歴史であり、それがある意味では、人類の繁栄をもたらしてきたとも言えるかも知れない。しかし仮にそれが真実であったとしても、それは人類の成果と言うより、地球の包容力のおかげであったと言えるかも知れない。その地球の包容力もいよいよ限界に達しつつあるように見える現在、これまでのような男性原理で歩みを進めていくことが可能だろうか。その行き詰まりを打開する価値観の転換がここに示されている。そしてそれは、決して未知のものでもなく、現在においても、→(3)
(3)類い稀なる能力かも知れないが、もだえ神の精神、苦難を抱える他者への限り無い共感力とその表現力を持つ石牟礼道子のような女性、また、それを紹介する著者の精神として、古代より脈々と保たれてきた。その女性原理とでも言うべき価値を女性の活躍とともに、ますます広げてゆくことが、地球的規模での課題であると感じられた。
<道子は18歳で最初の自殺未遂をし、新婚4ヵ月でも3回目の自殺未遂をしている/よき夫に尽くす妻、という傍目にはなんの問題もないような結婚生活が、道子には何ももたらさなかったことを意味している。自分の魂の自由を奪う家というもの、結婚というものが嫌でたまらず、おもかさまのように「あちら側の世界」に行ってしまいたいという衝動が不意につきあげてきたのだろうか/うわべは取り繕っていても、家や結婚というものに道子の魂はこれっぽっちもなじめず、苦しみしか見いだせなかった>。この記述で、みすゞの自死に至る哀しみを想起……
【漂浪(され)く道子の魂】<道子の言葉によれば、「悶えてなりとも加勢(かせ)せんば」とは、悲嘆にくれる人を心配して何を措いても駆けつける。駆けつけるけれども、何もできないでただ立ち尽くしてもだえているだけ。そのような人の在りようだと/そこにはなんの計算も見返りを求める気持ちもなく、相手の気持ちに乗り移るがごとく「瞬間的に悶える」のだという。道徳的な意味合いの強い「相手の気持ちになって考える」ということではない。第一、道子は「考えて」はいない/苦しむ魂の傍らに道子の魂が瞬間的に移動>。賢治の「デクノボー」か
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