形式:単行本
出版社:ナカニシヤ出版
被害者の自己責任について、玉手氏の前向き責任と後ろ向き責任の区別に言及しつつも、後ろ向き責任の否定には必ずしも与しない。児玉氏は今後の検討課題として、①「悪い事態が発生した場合に[…]どこまでが被害者当人の責任で、どこまでが政府や社会などの責任なのか」、②「仮に個人に責任があると考えられる場合でも、では実際に非難すべきなのか[感染者への非難は感染の事実を隠蔽し、感染状況を悪化させるおそれも]」、③「仮に本人が責任があったとしても助けるべき場合というのがあるのではないか」(pp162-3)を挙げている。
自己責任の問題を難しくするのは、本書でも的確に指摘されているとおり(pp153-4)、自己責任概念には非難可能性(blameworthiness)と賠償責任(liability)の両面が渾然と含まれるところだろう。児玉氏の見解は、1)感染者の非難可能性は認められる一方で、実際の感染者への非難は抑制されるべき、2)賠償責任は問われるべきでない、といったあたりに落ち着きそうな気配だが、これは後ろ向き責任の存在を一応は認めたうえで帰結主義的観点からその責任を棄却しており、玉手氏よりも理論的に整合的かもしれない。
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被害者の自己責任について、玉手氏の前向き責任と後ろ向き責任の区別に言及しつつも、後ろ向き責任の否定には必ずしも与しない。児玉氏は今後の検討課題として、①「悪い事態が発生した場合に[…]どこまでが被害者当人の責任で、どこまでが政府や社会などの責任なのか」、②「仮に個人に責任があると考えられる場合でも、では実際に非難すべきなのか[感染者への非難は感染の事実を隠蔽し、感染状況を悪化させるおそれも]」、③「仮に本人が責任があったとしても助けるべき場合というのがあるのではないか」(pp162-3)を挙げている。
自己責任の問題を難しくするのは、本書でも的確に指摘されているとおり(pp153-4)、自己責任概念には非難可能性(blameworthiness)と賠償責任(liability)の両面が渾然と含まれるところだろう。児玉氏の見解は、1)感染者の非難可能性は認められる一方で、実際の感染者への非難は抑制されるべき、2)賠償責任は問われるべきでない、といったあたりに落ち着きそうな気配だが、これは後ろ向き責任の存在を一応は認めたうえで帰結主義的観点からその責任を棄却しており、玉手氏よりも理論的に整合的かもしれない。