また、最初から「自分のものでない」言語を、ただ一つの言語として受け入れざるを得ない在り方、であるからこそ、決して本来性には至らないままであるというのは、やはりユダヤ教的思考を感じます。安易に母語の特権性を信じ、自らの故郷として回帰してしまうことは、デリダにとって偶像崇拝のようなものなのでしょうか。そして、「自らのものでない」言語に生きる存在は、何かの到来、それはやはり突如として、絶対的に「自分のものではない」ものとしての救済の到来を予感するのでしょうか。
今回この本を手に取ったのは、デリダもついに岩波文庫か、と発売時に感じたことが理由でした。もう歴史に属した哲学者ということなんでしょうか。しかし「差異の戯れ」といった言葉は情報化社会を表現していたように見えつつ、一方で情報化のニヒリズムとは全く異質な思想なのだと今回のこの本から感じました。自分はまだきちんと読解できる能力ないですが、これから岩波文庫で別作品も続けて出るようなので、読んでみたいと思います。
宮﨑裕助氏が『人文会ニュース 147号』に載せた 「15分で読む 母語の狂気から他者の単一言語使用へ」 がこの本のガイドとしてとても有益で助かった。 (PDFあり) https://jinbunkai.com/jb_jbnews/%e4%ba%ba%e6%96%87%e4%bc%9a%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%80%80147%e5%8f%b7/
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反証を試みているという理解。一方で、結局はフランス文化を彼は、アイデンティティとして結果的に選択したのではないか、さらにフランス社会はそのデリダを受け入れたのではないかとも思った。そういう意味では、構造主義を崩す主張にはなりえてないと思った。一方で、デリダ氏の代表的な脱構築主義という思想は自分にとっても理解できる。物事に白黒つけきれないという感覚、判断せざるを得ないであれば、あくまで仮に決断するという姿勢。交通事故において双方に一定の瑕疵を認めるという考えがそれに近い。
が、それが本書ではあまりつなげられてないし、触れられていないように感じた。 他には、あらゆる言語から逸脱しあ、または、本来的なを求める言語としてエスペラント語やヘブライ語を想起した。また、日本語も日本列島統一の過程で作られた言語であり、辺境にいたる話者ほど自分の言語と思えてないのではないかと思った。