形式:文庫
出版社:平凡社
さて、今回も読友の皆様とこのB版の《序論》を中心に丁寧に読み込んできて、これまで朧気ながら考えていたことが、少し明るみになってきたかなと思うところがある。この直前のコメントに掲載した「感性のアプリオリな直観形式(空間)に関する論理展開(いわゆるコペルニクス的転回を準備する論理展開)を実体概念がアプリオリになるという客観性の議論に利している」が示唆するものである。この論理展開により、僕には2つのことが数年間気になっていた。→
①実体概念のあやふやさ(物の単一の実体と物全体の実体との判別の曖昧さ ②このコペルニクス的転回へと連なる論理展開はともすると、《感性の直観形式》にとどまらずに、カント認識論全体に波及する可能性 ①②について今回の読書会を通して、いくぶんかその解決の見通しを得た。これを携えて本論の読み取りと思索を深めていきたい。(了)
私も本書を読んだとき、ジャクソンポロックの絵画をはじめて見たときと同じような感覚に陥りました。日常では全く使わないであろうカント用語に苦しめられました。しかし再読している現在もまだまだお経に見えます。(笑
朝乃湿原さん、ポロックの絵画‼️なるほど(^^)今回は自分の思い出話をレビュー代わりにしました。少しでも、カント哲学を皆様に身近に感じてもらえれば、よいかなと思います。しかし、偶然的に書店で手に取ったこのカント哲学とこんなに長い付き合いになるとは、夢にも思いませんでした😅
諸対象でしたか。ありがとうございます。みあさんに学びました(^^) そうかあ、、、感官からの表象とは言いますが、感官が対象にするという意味ですね、感官の諸対象とは。僕たちは哲学してますね(^^)
はい(笑)。
空間に関してカントは下記のように言う。 空間とは、外部の感覚のあらゆる現れの形式にほかならない。つまりぼくたちの主観が感じている状態である。そのなかにあってぼくたちは外部を直観で把握することえ可能にしている。対象の影響を受ける主体の受容性は必然的にこれらの対象のすべての直観に先行するから、すべての現実の認識に先立って、心のなかでア・プリオリにどのように与えられるか、そしてそれがどのように見られるのかを理解することができるのだ。
30年前までは『純理』の翻訳に関しては原佑のものは最悪だと言われていた、だがその後の弟子たちによる編集でかなり読みやすいものなったと謂われている。 ぼく自身も、岩波文庫より読みやすいと感じていた。
時々熊野訳を参照している
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さて、今回も読友の皆様とこのB版の《序論》を中心に丁寧に読み込んできて、これまで朧気ながら考えていたことが、少し明るみになってきたかなと思うところがある。この直前のコメントに掲載した「感性のアプリオリな直観形式(空間)に関する論理展開(いわゆるコペルニクス的転回を準備する論理展開)を実体概念がアプリオリになるという客観性の議論に利している」が示唆するものである。この論理展開により、僕には2つのことが数年間気になっていた。→
①実体概念のあやふやさ(物の単一の実体と物全体の実体との判別の曖昧さ ②このコペルニクス的転回へと連なる論理展開はともすると、《感性の直観形式》にとどまらずに、カント認識論全体に波及する可能性 ①②について今回の読書会を通して、いくぶんかその解決の見通しを得た。これを携えて本論の読み取りと思索を深めていきたい。(了)