読書メーター KADOKAWA Group

「ただそれだけのこと」を書くだけのコミュニティ(光心のメモ帳代わり)

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今さらブログとか作るのがめんどうなので、色々探した結果、コミュニティというシステムを発見!

読んだ本に限らず、アニメ関係も含めて何かしらまとめたい時用のメモ帳代わりで使用します。ぶっちゃけコミュニティの使い方分からんので、おそらく本来の使い方ではないだろうけれど、こんな使い方についてご了承頂ければ幸いです。

画像はリゼロ最終回から……ま、「物語」と書いて「こと」と読んだらいいんじゃないですかね?

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光心
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2024年5月24日公開『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』を見ました。
『ルックバック』が1時間いかないくらいの作品だったので時間あるしこっちも見ておこうかって思ったんだけど……めちゃくちゃカロリー高いじゃねぇか! もう頭ふらっふらだわw

「ウマ娘」はアニメとゲームちょろっと触ったくらいなので、今回主役のジャングルポケットはマジで初見だった。
見終わってから調べたけど、やっぱ史実通りのことやってるのとフジ先輩と縁があることもわかってなるほどなー、と。

物語としては、フジ先輩の走りに憧れてストリート(この概念もゲーム始まって1年以上経ってから出てきたはずだが)からトゥインクルシリーズに編入したジャングルポケットがどうやって「最強」になるのかっていうのが大筋な話。
同期にいるのはアグネスタキオンとかマンハッタンカフェとかだったりで、俺としてはアグネスタキオンあんま強そうなイメージなかったのに史実でもそうだったけどめちゃくちゃ強キャラとして描かれててびびったわ。トレーナーにお弁当ねだるだけの生物じゃなかったんだなこいつ。

そんなわけで、ジャングルポケットのクラシック3冠の道が描かれるわけだが……テーマというか描きたいものとしては「どうやって自分の中の弱さと対峙するか」だったと思う。
というのも、ジャングルポケットは最強を目指すためにジュニアから全勝したんだけど、GⅠでアグネスタキオンに全く勝てなかった。それも僅差とかじゃなくてマジで圧倒的に負けてて、今度こそ勝つ!って意気込んだもののアグネスタキオンは足のケガもあって無期限でレース出場を休止してしまう……日本一強いウマ娘が勝つといわれているダービーで勝っても、アグネスタキオンに負けたことだけがぬぐえず、それがトラウマと化してすらしまう。
その幻を倒そうにもできず、マンハッタンカフェに負けてしまう……そんな幻に対して、同じようにかつて怪我でダービーを諦めるしかなかったフジ先輩が「たられば」に囚われることについてジャングルポケットと勝負をすることで振り切る契機を与える。
決して存在しない「たられば」だけど、それを思ってしまうのは自分でしかないからこそ、自分で自分の最強を信じるしかない。
だからこそ、ジャングルポケットはテイエムオペラオーを含む世代最強どもとジャパンカップを走り、弱い自分を乗り越え僅差でオペラオーを差し切り勝利する。
同時に、他者を使って実験することで心を満たそうとしていたアグネスタキオンもジャングルポケットの姿から自らが勝つことでないと意味がないと言い切る……そして、いつかの未来にジャングルポケットたちはレースで並び立つ。最強を目指して。

というのがまあ大まかな話の流れという感じ。
個別の要素でいろいろと考えられるけど、やっぱ印象的なのはアグネスタキオンだよなぁと思ってしまう。

確かゲームでは、ウマソウル的なものを唯一プレイヤー以外で観測しようとしているキャラクターがアグネスタキオンだったはずなんだよね。
ウマソウルがなんなのかって話なんだけど、少なくともウマ娘は史実をなぞる形で運命が確定していて、足を怪我したスズカさんから始まり、テイオーやキタちゃんも結果的にそれに負けるしかなかった。
その史実をなぞるしかない運命的なものをウマソウルと仮称する。
ゲーム内ではプライヤーであるトレーナーの存在により、このウマソウルを突破するということが確認できゲームでは史実とは異なる運命の先を観測することができる。

この映画では「なぜウマ娘は走りたいのか?」という動機部分をタキオンは解明しようとしていたように思える。
そのためには、別世界の自身と同じ名を持つ存在が迎えた運命を知る必要があり、前を走るそれに追いつく必要性があった。
カフェに見えているものも確かに似たようなもので、史実のマンハッタンカフェが幽霊のような形でカフェに観測されていたと思う。
アヤベさんもちょっと似てて、まあアヤベさんは双子で生まれるはずの運命の先だったと思うが……こういう史実という「運命」を観測することで、タキオンはおそらく自身の存在の根源にあるものに到達しようとしていたのではないか。
そして到達しかけた結果として自身の故障という未来が見えた。

タキオンが求める答えの途中には自身の選手生命の終わりがあって、当然それを理解しながらも皐月賞では全力を尽くした。
ジャングルポケットに対する不義理に近いようなものを感じつつも、彼女は全力を尽くし見せつけそして無期限休止を選択した。
この一連のタキオンの流れのかっこよさと美しさそして、最後の「自分で走らないと意味がない」の結論のすごさに圧倒されたとしか言えなかった……ジャングルポケットが主人公ではあったが、アグネスタキオンが影の主人公でありこの作品のもう一つの見え方を提示してくれる存在だったのだと思う。

めちゃくちゃいいよね。科学的にあれこれ考えてた存在が、でもその情動を満たすのは自分でしかない、という結論に至るの。
アグネスタキオンがジャングルポケットにとっての闇であるならば、光であるフジ先輩ことフジキセキも結論としては同じところに至ってるんだよね。

ウマ娘のフジキセキと言えば、衣装がやばかったのがそのままちゃんと映画でもやばくて笑ってしまったww マジック要素も細かく入ってて、そうそうこういう感じだよね、ってのが理解できた。
フジ先輩はかつて怪我で皐月賞に出れなかったという過去があり、かつダービーに出ることもできなくてトレーナーに対して負い目のようなものを感じていた。
そんな彼女だからこそジャングルポケットがダービーで勝ってくれたことにはめちゃくちゃ感謝しているし、ある種の託す側の存在として描かれていた。
そもそものジャングルポケットはフジ先輩の走りに魅せられてクラシック挑むことになっていて、アグネスタキオンが圧倒的な走りによってジャングルポケットに絶望を与えたように、ジャングルポケットにとっては希望としてのフジ先輩だと描かれていた。

だから、フジ先輩が自身の幻に苦しむジャングルポケットに対して、走りでその幻つまり「たられば」をどう断ち切るのかってのを示してくれるのはまさにタキオンと同じような結論に至りつつも真逆の効果をちゃんと齎してるのがすげーよかった。
どんだけ勝ってもぬぐい切れない自分の弱さをどう振り切るのかって言うと、自分を信じるしかねぇんだよな。
フジ先輩も託すだけじゃなくて自分で復帰しようと走り出すことを決めたシーンとかもすげぇよくて、ウマ娘という存在が唯一測られてしまう速さという絶対的な基準から逃げずに戦うのがすげぇよかった。
ある種絶望だともいえるようなその生き方を貫くことの強さみたいなのを感じられたんだよな……いやだって今の世界もだけどどんだけ強くなっても先がいるわけじゃん。
その先を目指すことを辞めないっていう覚悟を持つことってすげぇ怖いんだけど、それを信じてみるしかねぇんだってなるのがいいんだよな。
オグリがいようが、テイオーがいようが、オペラオーがいようが……最強を目指すんだったら相手が強いとかどうでもいいんだよなっていう。

そういう意味でジャングルポケットを主人公に据えて「走る理由」を問いかけのテーマに持ってきたのはすげぇ面白かったと思う。
最強になりたい、けどじゃあ負けてトラウマを背負ってしまったら? そうしたら走れない?
あるいは、怪我をしてしまったら? もう走る必要性もないのか?

全然そんなことはなくて、ウマ娘という存在そのものが走ること以外に自己表現と自己実現を行うことができない磨かれた存在でもあるという部分に至っていたのではないか。
作中で印象的なアイテムとして使われていたプリズムも、まさにこの走るという光が入ってそれぞれの目的やしたいことによって分かれた色合いになっていくことでもあったのではないかとか考えたりした。
生き方が多様になっている現代でこんなプリミティブな話するってなかなかすげぇよなぁ……ある種の呪いと祝福の話もでもあるんだろうけども。

なかなかすげぇ作品が見れてけっこう満足度が高かった。
その分解釈というか、いろいろと頭おっつかないまま見ていた部分はあるが……ジャングルポケットが至極単純だったので、話の大筋がわかりやすくてよかった。あと、映像表現がもういろいろとぶっ飛んでてそれもすごかったな。フジ先輩の固有とか綺麗だなぁってのもあるけど、タキオンが追い付くシーンの描きとかすごすぎて理解が追い付いてなかったからな。
いつかもう1回見て再度解釈しなおしたいぜ……このへん前に見た映画も今見直して解釈しなおしたい部分はあるんだけど時間がなぁ。

並林
新着

さすが光心くん!

光心
新着

2024年6月28日公開『ルックバック』を見ました。
原作は『チェンソーマン』のタツキ先生で、そもそもの原作漫画自体ジャンプラで読んでたので正直言えば内容自体は全部知ってる状態で見に行った感じ。

原作漫画は2回くらいしか読めてないんだけど、あらためていろいろと気づいた部分があって面白かったかなという感じ。
色々と思うところはあるけど、漫画を映画というかアニメーションにしたっていうのはなるほどなーと思ってて、あらためて原作と比較してちょいちょい小さい解釈を加えつつも基本はほぼ漫画と同じだったなというので予定通りの料理出てきた感じ。

まず、今回映画になったことで藤野と京本の関係性の複雑さみたいなのを感じなおすことが出来たと思う。
というのも、原作読んだ時にそこまで俺は藤野には感情移入出来てなかったんだなって思ったんだよね。京本に対する嫉妬というか負けたくないという気持ちはわかってたんだけど、過ごしてきた日々がどれだけ黄金色だったのかってあらためてアニメになったことで気づけた気がするんだよな。
だからこそ、京本を部屋から出してしまった自分の後悔とたとえ自分が京本を救う未来を選んだとしてもそれは1つの物語であって、それによって救われることがあるし読む人を喜ばせたかったっていう原初の動機をあらためて得ることができたっていう流れに納得できた気がする……解釈あってるかは知らんが。

で、まあ、あらためて見てて思ったんだけど京本の描いていた扉の絵って取っ手が右側にあるんだよね。俺これ『チェンソーマン』とかの扉と同じ意味合いかと思ってたらあれ中からの視点なんだよなと思った。
京本はあり得た未来だと精神的にはやっぱ部屋を出れてなくて誰かに開けてもらうことを願ってた。んでまあ奇跡的に藤野と出会って、たぶん扉の向こう側からこちら側へようやく漫画という形であれ、扉を開けることができたのではないかと思った。だから、藤野が扉開けなくてもいつか京本は扉を開けていただろうってあらためて思ったな。

あと、藤野が一人で絵を描いてる時は貧乏ゆすりしてるのもなるほどなーと思った。京本とかといっしょに描いてた時はたぶんしてないんだけど……このへん原作が漫画だから同じように漫画にしてるから、監督がどういう解釈だったのかわからねぇんだよなぁ。良くも悪くも漫画を忠実にアニメにしたことで境目が分かりづらくなってる気もする。
だから、アシスタント探したりしてる時も貧乏ゆすりしてて、なんつーか結局誰に向かって描こうとしているのかわからないまま、できるから、という理由で描いてるだけなんだよね。それが最後京本の漫画を貼った時は貧乏ゆすりしてない。それはやっぱ今は亡き京本が喜んでくれたから描いていたし、京本以外にも待ってる読者がいるだろうという部分で動機を再度整理できたんだろうなと思う。

あと、藤野が先に歩いて行ってしまって京本の手が離れるシーンが別れの暗示としてそのまま使われてたけどあれあらためて見ても原作になかったんだな。ちょっとびっくりだわ。かなり自然に入ってたので、原作にあったシーンだっけか? と思ったわ。

見ててあらためて思ったのはそんなところかな……エンドクレジットがアニメーターの名前から入ってる! だからこれはアニメーターへの賛美だ! っていうのもわかるけど、ならもうちょい動きがあってもいいシーンあった気もするが? とか思わなくもないけれど(京本と藤野が漫画描いてるシーンもうちょい動きあってもよくない?)。
見ててやっぱ「自分、クリエイターの気持ちわかっちゃうんだよなぁ~」って勘違いは違うなって思ってしまったので、いつも解釈正しくないんだろーなーみたいな違和感みたいなのは忘れずに持っておきたいなと思ったかな……ただナナメに見ようとしてるだけじゃ? そうかもしれない。

光心
新着

2024年5月10日公開の映画『トラペジウム』を見ました。
映画見るのマジで久々で、90分くらいだったけどわりとあっという間に終わってしまって楽しく見れたと思う。

まず一番簡単な感想として、よく東ゆうというキャラクターを正々堂々出してきたなという部分に尽きるよね。
何やってでもアイドルになりたい子、なんだけどこの「何やってでも」が周りの人間関係構築から始まってマジでなんでも利用するという方向性になってるんだよね。まあぶっちゃけ言えば見た人全員1回は嫌いになるキャラなんじゃないかと思う……そしてすべて通して見終えると1回嫌いになった後にまあまあ好きになれるキャラだったんじゃないかとも思うのだ。
その点が直近で読んだせいで『Thisコミュニケーション』のデルウハ殿とかぶってまあ頭にちらついたよねww 計画が破綻しまくった挙句にノリと勢いで突破しようとして周りの感情を知ろうとしなかった結果失敗するという……デルウハ殿はその点まだコミュニケーションの重要性を学んでるんだけど、東ゆうはまだ高校生だからそらそうなるよなー、と。そのへんの子供ゆえの鈍感さと子供ゆえの将来への不安や心の揺れやアイデンティティについての問題がこの年齢ゆえによくわかってよかった。
そして最後にすべてをなかったことにするんじゃなくて、傷つけてきたことを謝りでも歩んできた道のりと出会ったことや経験したことすべてが無駄じゃないんだっていう結論も綺麗でよかった。
というのがまあ簡単な感想にはなるかな。だから巷で東ゆうの評判よくないのも理解できたよね。そして「アイドルって素晴らしい職業だよね」の狂気っぷりもよくわかったよね。

というところで詳細な感想になるんだけど……この物語において東ゆうってまあぶっちゃけ「才能ない」キャラとして描かれてるんだよね。
持ち前の英語力も極めるほどではないし、西南北みんながそれぞれ持っている何かしらの技術を持っていない……むしろ歌下手っていう。
そんな奴だから当然オーディションも落ち続けて最終手段としてこうなったって前日譚でもあるとまたきっと見え方違うんだけどそこは描かなかったんだよね。だから見始めていくと実は一番アイドルになりたいのに一番アイドルから遠い存在になっているのが東ゆうってのがまず苦しいよなぁ、と。このへんシャニマスのふゆこちゃんの初期とか性質近いと思うんだよな……だから、東ゆうは工藤慎二くんにプロデューサーになってもらえればまだ解決の道はあった気もするけど、彼は彼で目指したいものがあるからそこまで手を貸してはくれない、と。
東ゆうはだから最初から破綻した存在ではあるんだけど、この物語で重要なのは破綻することではなく、破綻するにしても行動することに意味がある、っていう部分なのが救いだよねって思うんだよね。
東ゆうは関係性をぶっ壊しまくったけど、でもそれは関係性を構築したからこそ発生することであって、何もしなかったら関係性を構築することもできない。そして、関係性とはそこまで淡泊なものでもないっていうのがこの物語のいいところだよなぁと。そしてそれを受け入れてくれた西南北面子のやさしさに感動するよなぁと。

東ゆうについてはルーティンとして覚悟をするために左手で首の後ろに押す(?)仕草をしてるんだけど、これが解散後に東西南北で揃う時にもやろうとしてでもやらなかった。覚悟を持って再会するつもりだったんだけど、みんなはもうそれぞれにやりたいことも見つけてアイドルのことも区切りをつけてたから覚悟して話す必要性がなかったし、自分の所見をいうことにもためらいがなかった。「もう1回アイドルやらない?」「そんなに恋愛大事?」ってまさに思ったけど繰り返さないために覚悟をしようとしたけどできなかったから言っちゃったんだよなと思う。
そしてそれでもまだ夢を諦めきれない……どうやってもアイドルという光に目を焼かれた子が最後にちゃんとやれてたのは救いだよなと思う。

作中で一番かわいかったのはたぶんくるみちゃんだと思ってたので、彼女が壊れてしまうところで東ゆうに対するヘイトが高まりきるのがうまいよなーと。蘭子がバランサーではあったんだけど、彼女自身冒険家になりたそうな感じでちょっと東ゆう寄りだったからくるみちゃんとはやっぱ共感しきれなかったんだよな。
美嘉ちゃんはまあ最初から問題になるんだろうなーという立ち位置ではあったんだけど、唯一東ゆうの過去を知っているからそれが再起というか再会しようと思えたんだよなというところで意味はあったと思う。彼女いわく東ゆうはヒーローみたいだったと言ってるので、実際のところ東ゆうはヒーローとかのが向いてそうではあるよなとか思ったりもした。万能感あったんだろうけど、オーディション落ちまくってそれも立ち消えたんだろうなぁという過去が垣間見えてくるのもよかった。

失敗する物語であっても、失敗そのものに主眼があるというよりも出会いや関係性、そして本当に自分が叶えたい夢はなんなのか? っていうところが大事でそれがよく伝わったんだと思う。
10年後の自分へという写真の中でそれぞれ選んだ道筋が最後にちゃんと叶っているけど、まっすぐに叶ったら「でもああいう未来もあったんじゃないか?」って思ってしまうこともあったんかなと思う。でも、1回アイドルやって失敗してるから今の道をちゃんと選べたんだろうな。

めちゃくちゃ面白かったし、「ぼざろ」とかの流行りの中で見ておいてよかったなと思う。

光心
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2023年11月3日公開の『ゴジラ -1.0』を見ました。
感想としてはぶっちゃけ特にないといえばいいのか……いい映画だと思ったし、人間ドラマもかなりちゃんとしてたと思う。
それを踏まえても、まあ、よかったんじゃない? という感じが素直な感想だったりする。

物語としては、全体主義によって死を選ぶのではなく、個々の意思によって行動をなしその中で死なないで目標を達成しよう、というのがイデオロギーとして見た感じの話だと感じた。
つまり、どちらにもよらず、やるべきだと思ったことをやるんだ、っていう話を今していたように思う。
これ自体はかなりバランス感覚としていいと感じたし、今後の世界においては極端に振れないことがまず大事だよね、ってのは言うまでもない話だと思う。

それを、敷島という選べない主人公を据えることで、最後に命の使い方を選ぶんだけど捨てるわけじゃないという結論に持っていくのは丁寧でちゃんとした物語だと感じた。
感じたけど……うーむ、今この話するの? という感じというか……見ていていろいろと頭をよぎったんだけど、たぶん一番よぎってたのが『呪術廻戦』だったんだよね。ちょうど今アニメでやってる渋谷事変あたりの虎杖に近かったのかなぁ、と。
生き延びたことに対する負い目みたいなのはあって、それはもっと早くに自分が命を捨てた行動をとっていればこんなこと起きなかったのに(まあ、銃器効いてないだろうから敷島が行動しても結果変わらんかったと思うが)という感じで、生きることに対する苦しみがあったとは思う。
それを踏まえて、でも、今自分の役割はこれでそれを為す以外にすべきはないんだっていう話になっていく……死滅回遊の虎杖とか、そのへんの死を覚悟してて行動してるので敷島ほどに大事なものが残ってないんだろうけど、虎杖の方がもっとやばい状況なので敷島くらいに取り返しがつくならまだ世界優しいよなぁということを考えてしまう。

いや、あれはあれで厳しいんだけど、少なくとも選択したことで失ったと思ったものが返ってきている時点で優しいというか……釘崎もいない、五条先生もいない状況の虎杖たちに比べればまだマシかもなという感じが。
その点、ゴジラの目的というか行動もよくわからんかったしなぁ……そこは別に焦点じゃなくて、ゴジラという災害に対して人間が、しかも軍属ではなく民間の人間として、何ができるのか? を問うていたので特に気にしないのもありなんだけども。

そういうヒューマンドラマとしての描きはよかったし、感動するというのもよくわかったけど……うん、というのが素直な感想だったりする。
久々に映画見れて楽しかった。

光心
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2023年7月14日公開、『君たちはどう生きるか』を見ました。

ジブリというか、宮崎さんの最終作になるんじゃないか? っていう部分があって、リアルタイムで見ようと思って見ました。
実は初日に見ていて、ただ感想をどうまとめるのかっていうところで悩んだりしたので何日か開けての感想投稿だったりする。

物語全体を通して、「嘘≒悪意」をどう扱うのかっていうのがテーマだったのかな、と思ったりする。

物語の流れを整理すると、
まず、真人くんは母親が亡くなるというところから物語が始まる。
真人くんはその整理がつかない状況で、母親の妹である夏子さんと父親が結婚することが決まり、母親ではない人が母親になることに関して認められずにいた。
父親は忙しいし、帰って来ても夏子さんといちゃらぶしてるし、学校では居場所なさそうでってことで、気を引きたくて自分で自分に大きな怪我を負わせることにした。
目論見通り、父親は心配したけれど、近くにいてくれるわけでもなく、誰がやったかも言えず……という状況で、アオサギに「母親は生きている」と言われてしまう(これはたぶん、父親の帰りを待っているシーンあたりから自分が生み出した「生きていて、助けを待っているんだ」という願望ゆえなのではないかと思う)。
その言葉に揺らぐわけだが、夏子さんたちの声で夢から醒めるが、今度は夏子さんが消えてしまう。
森に入っていくところを見た真人くんは、夏子さんを追いかけて、地下の世界へと足を踏み入れる……。

地下には世界があって、その中をアオサギと一緒に夏子さんを探すというのが物語の流れとなる。

地下世界においていくつか重要なイベントがあり、1つがその世界の主である大叔父に出会ったところだろう。
大叔父は永い事生きていて自身がもう永くないことを理解し、真人くんに世界の運用を継いでほしいと考えていた。
その際に大叔父に言われたのが「君に世界を託したい。どういう世界にするかは君に決めて欲しい。1つ積み木を加えることができる」という言葉だった。
それに対する真人くんは「木ではなく石だ。そこには悪意がある」と言って継ぐことを拒否する。
大叔父はそれを聞いて、「それがわかるから君に託したい」と俄然真人くんに継がせたくなるわけだは。

このシーンはかなり重要なシーンだと思っていて、ぼんやり見ているとなんか急によくわからんことを言い出したぞ、と感じると思う。俺は少なくともそう感じた。
なぜなら、ここまで「悪意」という言葉が出てこなかったからだ。
だから、急に真人くんが「悪意がある」と言い出すのは急だがこれは後で意味がわかることになる。

次に重要なのは、夏子さんを見つけたシーンだ。
産屋にいる夏子さんに対して、真人くんは帰ろうと言うが、夏子さんは強い口調で真人くんを拒否する。
それに対して真人くんは「お母さん」と言うのだ。
ここまで認められなかった母親として認めたというのが、この物語において真人くんの1つの成長として受け取ることが出来るだろう。
それを認めた契機はどこだったのか、が俺の中ではハッキリしていないが、あなたはここにいてはいけない帰りなさいと言ったことで、そこに愛があることを感じたからではないかと思う。
怪我をした時も申し訳なさで泣いていたわけだが、そういう細かい積み重ねが理由だとは思う……ちょっとはっきりとは言えないけど。

若い時代の母親に会ったことで心境の変化があったというのもあるとは思う。
最初に、夏子さんを好きなのは父親だと言ったわけだが、その父親がかなり心配していることも理由にあるかもしれない。
重要なのはここで、本来母親ではない人を母親と呼ぶことが出来た点に尽きる。
これは嘘でありながらも、嘘ではないというかなりあいまいな部分だと思うのだ。

最後に重要なシーンだと考えるのは、再度大叔父と話をしたシーンだ。
このシーンで大叔父は今度は13の純粋な積み木を集めてきて、君に綺麗な世界を作って欲しいと言った。
(13というのは、宮崎さんが作った映画がちょうど今作で13作目というのが理由なのかなという推測はしている
⇒『パンダコパンダ』は高畑勲が監督やってるので、合わないのでは?という指摘はあるが)
真人くんはこれをさらに拒否する。
この拒否に対して、大叔父は「汚い世界に戻るのか?」と聞くわけだが真人くんは「自分の中にも悪意があるから触れないんだ。僕は悪意のある世界で生きる」と答える。
この、悪意がある、というセリフのシーンで怪我の痕を触るわけだが、このシーンでやっと「悪意」が何なのかが示されるわけだ。
つまり、嘘がそれに近いわけだが、明確にそれを指すわけではない。
それは心の中から思っていないことであり、夏子さんを母親と呼ぶことは嘘だけど、ここの底から思っているから悪意ではない……という判定をおそらくしているはずなのではないかと思う。

上記3つのシーンがこの物語において重要はシーンであり、これが最後のアオサギとの別れに繋がると思うのだ。
道中、きりこさんに言われた通り、二人で生きていくこと、つまり、嘘と共に生きていくこと、というのがそれを指しており、アオサギは真人くんのある種の側面を映した存在であると思うのだ。
アオサギは嘘つきで、嘘ゆえの願望を言う。そいつとは友人だが、別れなければならない……悪意がそこにいくらか含有されているからだ。
だけど、願いは最初嘘から始まる。
誰かを利用したいだけの嘘は悪意として判定し、悪意無き嘘は認められる。
アオサギを否定せず友人とした真人くんはたぶんそういう意図だと思うし、この悪意無き嘘は肯定するというのがテーマそのままに乗っかると思うのだ。

君たちはどう生きるか、というタイトルは、この真人くんの態度に対する問いかけなのかなぁという部分はある。
嘘が嫌な人も、優しい嘘ならいい人も、利用してでも嘘を使う人も……それぞれ色んな感覚があって、その中で、どう生きるか、という投げっぱなしの問いかけをこれを見て考える契機にしようなっていう感じなのかなというのも感じたりした。

という感じで、テーマゆえか主人公が俺の知ってる限りのジブリ作品にはない感じがあったりした。
基本設定として、迷いがあるというか、自身の身の内にある「悪意」をちゃんと自覚しているのはかなり珍しいのではないかと思う。
それこそ、堀越二郎は「悪意」ではなく純粋に美しいものが見たいという理由で作ったんだけど、なんというかそういう潔さがある身勝手さではなく、穢れのある悪意に近かったのかなと感じた。
物語はその「悪意」を家族との関係性やらなにやらと絡めながら展開していて、その展開の仕方や不思議な世界観なんかは飽きずに楽しく見れたと思うので、面白かったと思う。

また色んな感想見たり聞いたりすると感覚変わりそうだけど、俺の中だとこの嘘をどう区切るのかがずっとテーマだったのかなって思うし、それに対する回答は1つの生き方として提示されてたのではないかとも思う。



一応、他の人感想見る限りでは、鳥の糞あたりの汚さこそが現実っていう解釈とか、アオサギが鈴木さんとかあってなるほどなーという感じがある。
あと、大叔父が高畑勲なのでは? っていう解釈があって、俺自身が高畑勲のこと良く知らんのでちょっと保留かなぁ。

光心
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1930年公開、『西部戦線異状なし』を見ました。
ネトフリで新しくやってるらしいけど、それより前の白黒の方を見ました。

戦争系の映画はいくつか見ているけれど、第1次大戦のドイツ側の最前線ってことで、まあひどい話だよなーとか思う。
こういうのを見るとやっぱ全体主義に対する否定とか、命を粗末に扱わないことに対するあれこれを感じたりするなぁ……戦場に居続けるとどんどんノンデリになっていくというか、生と死だけが残っているという辛辣さみたいなのをすごく感じる。こういう地獄みてーな状況に対して、後方だと、ああすればいいだのこうすればいいだのとかメディアのクソったれさとかを感じたりしてこの乖離に対してはどうしようもないんかなぁみたいなのを感じる。

だからこそ、メディアではなくストーリーとしての描きに意味はあったと思うし、この地獄みてーな状況はやっぱよくないよなと思う。2020年代入ってまた戦争起きたりしていて、ナショナリズム形成にはなるにしても、やっぱ辛いというか頭おかしくなる環境である戦場は避けたいよなぁと感じる。
ポールの最後のシーンなんかも凄く印象的で、あんだけ生き残っても些細なことで死ぬし、死んだとしても戦争は終わらない……異状なしの通り、これが戦場の日常で、その狂気っぷりが描かれていて面白かった。

特に、敵兵を刺殺して過ごした後のあの感覚は本当にきつそうだなぁと思った。相手にも家族がいて、気づかなければ殺す気もなくて……でも殺すしかないわけで。国というよくわからんでかいもんのために戦うってそういうことではあるんだが、異常ではあるだろうなぁと。なんつーか、どういう感情になるのかってわからんというか、たぶんああいうことが日常的に起きているから頭ぶっ壊れるしかないと思うから絶対わからん気がする……わかったらやばいというか、いや、ブラック企業はある意味そういう最前線感あってくそったれさとかそうなんだけど、そういうとこにいて異常だって思える感性失ったらダメだよなぁと感じた。

という感じで、戦争の悲惨さを描いていたけれど、中でも最前線の英雄でもない普通の人間が死んでいくという状況の描きが凄かったし面白かった。

光心
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1976年公開の『タクシードライバー』を見ました。

一応、解説読んだのと見ていた感覚から理解は出来たので、『ファイトクラブ』との対比として見れたかもなーみたいなのは見終わってから気づいた。
ベトナム戦争周りのあれこれはいまいち詳しくはないけれど、そのへんの情報加えることで細かい部分は理解できたかもしれん。

物語通して考えても、うーむ、と思ってしまう部分はあって、世界が腐ってるのと自分がそれに近い位置にいること、女性にフラれるところから大統領候補を暗殺しようみたいな流れまではまあ理解できる。一方で、そういうダークな社会に組み込まれてしまっている女の子を救おうみたいな話が同時に進んだことで、こいつはどういう感覚で動いているんだ? みたいなのはあったかもしれない。

なんつーか、「そんな生活は間違ってる」って言ってるお前がやろうとしてることがかなりの犯罪行為だが? というブーメランだし、なんならそれやりきるでもなくバレそうになって逃げるという感じからして行き当たりばったりというか、すごくテキトーな理由だなぁと思ってしまう。
人生うまくいかないってところから出てくる結論が、『ファイトクラブ』みたいな秩序破壊or誰かを助けることで英雄になる、の2択しかなくてどっちつかずでなんかうまくいきそうな方になれーみたいなのはうーむと思ってしまう。

このへんのトラヴィスのテキトーさがちょっと気にはなったかな……最後のシーン、夢落ち説とかあるらしいのを見たりすると、まああの銃撃戦で生き残ってる気がしないという感はあるんよな。
そういう部分の達成感というか、英雄として祭り上げられる、という自分の都合のいい夢世界を作ったという風がちょっと納得はする……それくらいに行き当たりばったりで、特に英雄視されるわけでもないと思ってしまうなぁ。

という感じで、面白かったけど、もろもろ気になってしまう部分があるかな……トラヴィスの目的が「なんか生きるor死ぬ理由が欲しい」という漠然としたもので、それに巻き込まれる周囲の人間可哀相だなーみたいなのを感じてしまうのは冷淡なのかどうか。
そういう意味でも夢落ちの方がトラヴィスのテキトーさには説明つく気がするな……あれを主観で良いと思っても、客観で良いとは思えないし。

光心
新着

2020年2月公開の『劇場版 SHIROBAKO』を見ました。

というのもちょうど無料公開期間中だったってのと、見てなかったなぁという感じでTV版とか細かく覚えてないんだけど、見ておいて損はないだろうなみたいな感じで見たが、面白かったかなぁ……いや、面白かったというよりは元気になれるという感じがあったかな。

物語はTVアニメの終わりのその先を描かれたわけだけど、それぞれみんなうまくいってない状況からどうやってうまくいくのかという話が大筋にあったのでそういう意味での楽しさがすごいわかりやすかった感があった。
その横に、アニメーションとは、制作とはどういうものであるべきか、みたいな話が転がっていて、それをどう組み合わせるのかという部分がかなり大きかったかなぁという感じがある。
なんで元気になる映画だったかと言えば、前者の物語としての大筋自体が「うまくいってない時でもうまくいくために頑張れば報われる時が来る」という話なので、そらまあ当然そうなんだけど、なんというかそれだけではなくて「今日と同じ日は来ない」っていう当たり前のことが、この仕事をしないと生きていけない現代においてどういう意味をもって響くのかというのが考えられていてすごい元気が出た気がしている。

そもそもムサニの失敗は、契約が結ばれていない状況でうまくいくという「夢」だけを見て行動していた点で、それはTVアニメの時も同じような話はあったと思う。今回はその失敗の反省として何度も「伝わること」を重要視していて、その過程に契約ちゃんとするなり作品完成させるなりがあったと思うんだよね。
絵やアニメーションとは「伝わること」や伝えるためが原始的なものである、というのは子供とのやり取り通しても描かれていたんだけど、結果としてやはり何かを伝えたいというのがまず前提にあると思うんだよね。それこそがアニメーションであり、そのために動きがついたり、音が乗ったりというのがある……この伝えたいを伝えるためにどれだけ頑張っているのか、そしてそのためにどれだけ足掻くのかというのがストレートに描かれていたのでわかりやすかったし、元気にもなれたのだと思う。

それぞれのキャラのその後も見えたり、かつてと同じやり取りしたりしてファンムービーとしても良かったし、最後の方シーンシーンの繋がりが気になるところがあったけどそれを最後でちゃんとやっぱ違うよねとメタ的に話として出しているのも良かったなぁ。
最後力入ったアニメーションで締めたんだけど、最後の月が十三夜月で、まだまだ満ちていけるという描きも、おそらく『サクラクエスト』の続編っぽいのを作りたいという描きも、これから続く日常の中でそれでも昨日と違う今日を頑張っていくというのを感じられてよかったかな。

色々と好きなシーンあるけど、脚本同士のキャッチボールとか、監督の脱走シーンとか面白かったなぁ。げ~ぺ~う~乗り込むところとか、最後のシーンのあれこれ考えると足りないんだけど良かったし、平岡くんが他人を思いやれるようになってる変化とかも良かったな。
という感じで、明日からまた頑張るか。

光心
新着


2023年公開、『グリッドマン ユニバース』を見ました。

正直なところ、「ダイナゼノン」が終わった後に劇場版とか何やるん? なんなら、「グリッドマン」の時からわからんかったあの世界についてどう説明するん? みたいなことは考えていて、どうなるんだろうかと思っていたのだけれど、普通に面白かった。
なんなら楽しく見れたのではないかと思ったりして、すごいなぁと感心するばかりである。雨宮監督がかなり丁寧に仕上げてくれていたのが良かったと思う。

物語として、あの世界はマルチバースであり、すべての宇宙は同時に存在しているという定義になったことで「グリッドマン」世界と「ダイナゼノン」世界はそれぞれ別々に存在しており、世界線が違うという意味合いでの広がりではなく、全く異なる世界としての広がりであることがわかった。加えて、その世界はメタ的に「グリッドマン」という物語を通して繋がっている、グリッドマンユニバースであると定義したことで、その世界を外側から観測する新条アカネの生きる世界=現実すらも物語のスケールの中に落とし込むことで、超メタ的にグリッドマンユニバースは存在しているのだとしたのがかなり良かった。
これは「シンエヴァ」の最後のような現実への回帰を促すのではなく、同時に存在しており、それはTVの向こう側に存在している世界であると定義されることで、どちらも同時に存在し、どちらが優位というでもないという良さがあったと思うのだ。これがまず面白かった。

設定自体の面白さもあったのだけれど、もちろんバトルも山盛りだし、ドラマとしてもかなり面白かった。
ドラマに関しては、特に響裕太と宝田六花の関係性が強く押し出されていたとは思うのだが、響裕太とグリッドマンの関係、蓬とガウマさんの関係、ガウマさんと姫との関係も良かったし、新条アカネとアンチくんの関係も素晴らしかった。TV版では不本意な別れであったりしたものが今回丁寧にそれらに決着をつけたことで、完結編としての映画の意味がめちゃくちゃ出たのではないか? と思うし、続けることだってできなくもないしで、良かったんだよね。

見ていて一番良かったのが、響裕太とグリッドマンの関係性で、そもそも物語の最初に大きく提示されていたのは響裕太は記憶を取り戻した状態、つまり、響裕太としてグリッドマンと一緒に戦うのか? という部分があったと思うのだ。彼は記憶を失っている間に宝田六花と距離を近づけたようだが、だからこそ、響裕太はグリッドマンとしての彼に宝田六花が惹かれていた可能性がある。
この可能性に対して、響裕太は迷わず人を助けるし、怪獣と戦うしで、実は記憶の有り無し関係なくグリッドマンとして戦う勇気を持った少年であることがわかるのだ。この少年の勇気をヒーローの条件としたいわけだが、彼はまあ色々と情けない。演劇は一緒に行けないし、いい雰囲気になったら幽霊に邪魔されるしで、ぱっと見ではけっこう頼りない少年とみられると思うのだ。だけれど、彼は自分しかできないことをやりきる勇気があるし、ヒーローであるグリッドマンを助けるために自らの命だって手放す可能性があることをした……彼は勇気があり、そして、後悔に暮れるグリッドマンを許し一緒に歩いて行こうとする強さがあるからだ。翻って、グリッドマンは弱さを持ってしまうのだけれど、弱いから誰かに助けてもらうし、それこそが強さであると叩きつけたのはめちゃくちゃ良かった。煉獄さんは人は弱いゆえに強いと言っていたけれど、それに近い。
この関係性がかなり良かった。

あと、物語内で演劇の脚本の話を通してキャラたちにメタ的な評価を持ち出しているのも面白かった。新条アカネはあまりにも設定が突飛でおかしいというのはまあそうなんだろうけれど、そういう子がいたからこそああいう物語になったし、そういう突飛さがすごく大事なら手放しちゃいけないんだろうと思う。これはそのままグリッドマンというヒーローの物語を見てきた子供たちが大人になった時に響くであろう言葉でもあるし、物語を作るという意味でもきっと大事な部分だろうと感じた。この話を突き詰めると、「じゃあ、作家は物語を好き勝手にカオスにしていいのか?」という問題が生じてくるのだが、これがそのまま今作の問題意識へと繋がっておりラスボスとしてのカオスが浮き上がって来たのではないかと思う。
あくまでも物語はグリッドマンの話であり、突飛でカオスでまとまりのないものになってしまえば世界は崩壊してしまう……それをグリッドマンユニバースの終焉としたのだが、じゃあこれが終焉に至らないようにするにはどうするのかと言えば「観測者」が必要になるのだ。
「観測者」がいることで世界の歪みがわかる……新条アカネに課された運命はそれで、だからこそ出てきた時にけっこうわくわくしたんだよね。変身したあたりの可愛さとか彼女らしくてけっこうよかったってのもあるんだが。

この観測者によって作り上げられる「概念」こそが物語という宇宙を形作る何かであり、それがこの物語ではグリッドマンだった。そして多くの人間が思い描くグリッドマンを通して、作られた物語は再度定義されカオスではなく、1つの形に昇華される……概念を作るってたぶんこういうことに近いと思っていて、神とかみんな見ているものは違うけど、重なる部分を集めていくときっと1つの形になっていく。そうして作られた概念、グリッドマンというヒーローの物語は、自由であり解釈されうるものであり誰かに占有されるものでもない……元ネタである特撮からアニメへと繋がったことでこの言葉の持つ意味合いが形としてあらわされているのがすごいなとしか言いようがないのだ。

じゃあ、アンチくんみたいなアニメオリジナルの存在は不要なのか? という問題が出てくるのだが、これに対しても必要だと言い、生み出した側の意図とは関係なく色々なものを見ることができたという新条アカネに対する礼の態度とかめちゃくちゃ良かったんよな……それこそ、本編では対して和解もしなかった二人がこうやって時間が経ってから再度出会うことでまた違った言葉を交わし合うというのはすごい素敵で良かった。
アレクシスもキンブリーみたいな悪の美学というか、良いキャラしてんなぁという感じで、どのキャラも見せ場多くてよかったとしか言いようがない。

ガウマさんと姫との関係も良かったんだよなぁ……新世紀中学生として生きるガウマさんだけど、姫の前だと結局ガウマさんでしかなく、けれど、過去をちゃんと振り切って生きていくことを決めたのもすごい良かった。このへん、蓬との夜の会話もすげーよかった……兄弟に近いというか、あの二人の距離感もまたかなり独特というか、信頼できる大人と子供みたいな関係性すごい言葉にできないくらい良かった。

ビー玉とかアニメ版でもある程度伏線として機能していたアイテムが使われてたのも良かったし、めちゃくちゃ色んな合体見れて面白かったのもある。最後、普通の物語だったね、って言っているけれど、けっこう良い物語だったと俺は思う。
色々と詰め込んでいたけれど、すごく丁寧に何度も考えては作り直したのではないか、と感じたし、アカネちゃんが再度出てくることに対する説得力とかもすごかったし、どのキャラも活き活きしてたし、先輩は職見つかってないしで面白さと感動どっちもあってすごい良かった。
バイクのとこはたぶん原作である特撮の方の関係っぽいので俺はよくわからんかったけど、そういうさりげない部分でのリスペクトみたいなのも良かったなぁ。

という感じでかなり満足でした。アニメ見てもう1回見るとまた印象変わりそうだけど、何よりもマルチバースの概念がこうやって物語で説明されると色々と面白かった。世界線みたいなループではなく、全然違う銀河が隣にあるって面白い発想だわ。