★けふと言へばもろこしまでもゆく春をみやこにのみと思ひけるかな/藤原俊成
新古今和歌集・春歌上。
立春の歌。
日本の暦(こよみ)は「もろこし(中国)」から来たものですので、日本の立春は中国の立春。
ところが、中国の暦によれば春は東からやって来て西に向かうものでもあり、中国(西)からやって来た暦によって、日本(東)から中国(西)へ春が向かうという逆輸入現象が起きるのです。
まさに「やまとうた」という感じの新春日本讃歌。
この歌にはないけど、私は「空」をこの歌から感じるのです。
広くてどこまでも続く空。
★宿りせし人の形見か藤袴忘られがたき香ににほひつつ/紀貫之
古今集、秋歌上。詞書「藤袴をよみて、人につかはしける」。
植物の藤袴(ふぢばかま)はその芳香に特徴があって、当時はお香を衣に薫きしめていたので、衣類としての袴の香りと、植物としての藤袴の香りと、非常に手の込んだ歌になってます。
この歌で貫之は、逢瀬を終えて相手の男性を送り出した女性に扮しています。「藤袴の香りを嗅ぐと、あなたがまだこの部屋に居るような気がします」、というような風情。
こんな濃厚な歌が、秋歌に置かれてるのがいいじゃない。
★数へ知る人なかりせば奥山の谷の松とや年をつままし/藤原道長
千載集、雑歌上。詞書「上東門院より六十賀行ひ給ひける時よみ侍りける」。
上東門院は、道長の娘で、いわゆる中宮彰子。歌意は「(あなたのように)私の年齢を数えて知らせてくれる人がいなかったら、私は奥山の谷間に生える松のように、無駄に年を取るだけだったでしょう」。
歌の内容より千載集の雑歌上巻頭にあることの意味。選者俊成は道長の子孫でありながら、平家の盛衰をその目で見た。藤原道長の栄華をそこに重ねて時代の空気を後世の我々に伝えているのです。
★きくやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは/宮内卿
新古今集。題「寄風恋」。
意訳すると「聞いてますか? どう思いますか? 上空(うわの空)に吹く風だって、松におとする(待っている女に訪れる)んですよ!(それなのにあなたは来ないんですね)」あたり。
才気煥発な女性が美人だとされていた時代、ここまで男性をやり込める歌が作れたら大評判だったろうな、と。
ただしこの歌、誰かに贈った歌ではなく題詠なので前の実朝の歌と条件は同じ。松風を使っているのにこの違い。
★古りにける朱(あけ)の玉垣神さびて破(や)れたる御簾に松風ぞ吹く/源実朝
金槐和歌集・雑。題『社頭松風』。
実朝を扱う本にはほとんど取られたことがない、不思議な一首。正岡子規も小林秀雄も、吉本隆明も取ってない。
古びた社の、破れた御簾に風が吹いてる、っていうだけの歌ですが、ふつう古典和歌で「松風」が出てきたら恋人を待つとか、そういう色気があるのにこの歌にはありません。
これはもう現代短歌に片足突っ込んでる歌で、古典和歌の持つコミュニティを無視してる。これほど孤独な歌もめずらしい。
★風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢/俊成卿女
新古今集。
新古今集を扱う本なら、それが大学受験用の参考書であっても必ず載ってるくらい有名な歌。
和歌で夢が出てきたら必ず恋しい人の夢で、寝覚めとはその恋人への想いが溢れて夢から覚めること。そして袖の香りは、…昔は衣服にお香を薫きしめていましたから、逢瀬によって相手の袖の香が自分の袖に移ったりするのです。
よってこの歌は、恋人と同じ香りのする風に目覚めるという濃厚な雰囲気なのですが、受験ではそこまでの答えは求められないだろうなあ。
★駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮/藤原定家
新古今集。
古来から見渡す限り真っ白という解釈を施されて、墨絵の枯淡な味わいというような読み方をされてきました。
それでも構わないのですが、そこに新たな読み方を提示したのは丸谷才一でした。
この、一面の雪景色の中を、歌の主人公は馬に乗ってどこに行こうとしているのか? 今と違って不便極まりない交通環境なのに、何も雪の日に出かけなくてもいいじゃない。
男が雪にも関わらず出掛ける場所。
愛する人が待つ家以外、どこがあるでしょうか。
★咲きそむる梅ひとえだの匂ひより心によもの春ぞみちぬる/伏見院
伏見院御集。
「そむる」は「初むる」、「よも」は「四方」のこと。天皇にしか詠めない、いわゆる「帝王調」の一典型。技巧なく大柄、それでいて余韻に溢れた御製。ちまちました読みは不要です。
★あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む/柿本人麻呂
百人一首。
枕詞があって、序詞があって、結局は秋の長い夜を一人で寝るってだけなんでしょ? みたいな解釈をされてきた不遇の名歌。
山鳥は夜になると雌雄が別々の巣で寝ると信じられていて、その山鳥のように(また山鳥の尾のように長い長い秋の夜を)「わたしとあなたは別々に寝るんです、あなたは寂しくないんですか!」と男性から呼びかける、これも実は恋歌です。
和歌は必ず読んで欲しい人がいるんです。
★奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき/猿丸大夫
百人一首。
鹿の鳴き声が悲しいのは、同じ男として一人寂しく夜を過ごさなきゃならないからです。この歌は自然の侘しさを詠んだものじゃなくて、自分の恋がうまくいかなかった(今夜の相手を見つけられなかった)ことを、鹿の鳴き声に託して詠んだ恋歌です。
古典和歌を読む時、恋(あるいは性愛)を度外視してしまうと本来の若々しい趣を失ってつまんなくなるという見本のような歌。
★夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かず寝ねにけらしも/舒明天皇
萬葉集巻八。ポイントは鹿が鳴くということ。古典の世界では鳴くのは必ずオスの鹿で、何のために鳴くかというと、メスを呼ぶ(妻恋ひ)ためです。
毎夜毎夜、雄鹿の鳴き声が聞こえたのに今日は聞こえない。ああ、今夜は雌鹿に逢えて、一緒に寝てるんだなっていう。
生きとし生けるものの恋の成就を喜ぶ天皇はこうやって国の発展を祈念してるんです。
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