★どんなにか疲れただろうたましいを支えつづけてその観覧車/井上法子
『永遠でないほうの火』。
少なくとも、歌人の間ではとても有名な観覧車の歌があります。
☆観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)/栗木京子
井上法子さんの観覧車は、これを想起させるために作られてるんじゃないかと思う。そうであればより深く味わえるし、そうでなくても読者ひとりひとりが持つ観覧車の記憶へ直接アクセスするような鋭さを持つ。
幻想的な歌風の歌人ですが、実は豊富な知識に裏打ちされているように思います。
★雨にけぶる神島(かしま)を見て紀伊(き)の国の生みし南方熊楠をおもふ/昭和天皇御製
昭和37年。
昭和天皇は昭和4年(1929)、和歌山県に行幸した際、南方熊楠の御進講を受けている。有名なエピソードなので興味が湧いたら調べてもらうとして、昭和天皇にとっても思い出深い出来事であったとみえ、戦後になって再度和歌山へ行幸した際にこの御製を詠んだ。
何がすごいって、うまく詠もうとしていないこと。五七五七七を守ってすらいないし、推敲したんだろうか。
本人にしか分からないことでも、歌は成り立つのであります。
★穴があれば入りたいというその口は(おことばですが)穴じゃないのか/望月裕二郎
『あそこ』。
言葉の表現者として、普段何気なく使う慣用句への追及を行う。こういうのはある意味揚げ足取りとも受け取れますが、「普段何気なく使う」ことにまで意識を働かすことこそ、生活者と表現者を分ける第一歩なんじゃないかと思う。
この作者には他にも
★そうやって天狗になるなよ天狗ってあの鼻のながいあかいやつだが
★外堀をうめてわたしは内堀となってあそこに馬を歩かす
例えるなら、ダウンタウンの松本人志のような。
★朝霞濃きみどりいろの野を見れば判断しかぬる悲しみぞあり/前川佐美雄
「大和」。
頭から読んできて、四句「判断しかぬる」をどう捉えるか。これを他の句と調和するような表現にしなかった点が、この歌の生命線。
たとえば
×朝霞濃きみどりいろの野を見れば「そこはかとなき」悲しみぞあり
みたいな改編をすると、わざわざここに抜き出すほどの歌でなくなる。
四句「判断しかぬる」の強烈な違和感こそが前川佐美雄らしさであって、それまでの近代短歌とは違うのだという決意なんだと思います。
★われの一生(ひとよ)に殺(せつ)なく盗(とう)なくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は/坪野哲久
「碧巌」。
現代短歌の出発点として語り継がれる「新風十人」という伝説的なアンソロジー歌集があって、坪野哲久はその十人のひとり。掲出歌を含む「碧巌」という歌集はかなり年を取ってからの作品ですが、このピカレスクな悔恨には痺れました。
当人は治安維持法で逮捕されるくらいの思想家だったのですが、それよりも殺人と窃盗のない人生を悔いるという価値転倒。
でもこの極端な表白は混沌とした戦後そのものなんじゃないですかね。
★體育館まひる吊輪の二つの眼盲(し)ひて絢爛たる不在あり/塚本邦雄
「綠(緑)色研究」。
旧字旧仮名(塚本は「舊字舊假名」と書く)で、市川崑の映画やエヴァンゲリオンを髣髴とさせるような明朝体をイメージしていただければ。
だだっ広い体育館に吊り下がる、吊り輪を眼とし、その真ん中が中空なので盲目とする。それだけでもゾクゾクするのに、「絢爛たる不在あり」の強烈な言い切り。誰が言ったか「負数の王」塚本邦雄の面目躍如。
初めて読んだ時の衝撃は忘れません。私の現代短歌の出発点はこれでした。
★地球儀の見えぬ半分ひっそりと冷えいん青年学級の休日/寺山修司
「血と麦」。
穂村弘さんが「短歌とは、圧縮ファイルのようなもの」と本に書いていて、それを初めて思い知ったのが寺山修司のこの歌でした。
青年学級については調べてもらうとして、「地球儀の見えぬ半分」という圧縮の仕方。教室の隅に置いてある地球儀というシチュエーションを想像するだけで、他に当然あるだろう黒板や教卓なども読者の体験から「解凍」できるんじゃないですかね。
どんな言葉を使えば読者が「解凍」しやすいか、生まれながらに知っているのが寺山。
★もうそろそろ私が屋根であることに気づいて傘をたたんでほしい/笹井宏之
「えーえんとくちから」。
笹井宏之は何にでもなってしまう歌人で、屋根になってしまうこの歌は笹井らしい愛に溢れてると思う。言葉を伝えられない屋根は、その下で傘を差している人に気づいてほしいと願う。
杜甫は世界中の人が雨で困らないようにと、世界を覆う大きな屋根を作りたいと願った詩人でしたが、笹井は直接安心を与える屋根じたいになっています。ひとびとを見守る優しさ。
★「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの/俵万智
「サラダ記念日」。
歌に「など」「なんて」が使われてる時は十中八九、字数合わせです。それが露骨に分かってしまう場合が多いので歌人は避けるのですが、この歌は稀有な成功例。この「なんて」はこれ以外に使いようがないくらい見事にはまっていて、その一点だけでも言語感覚の鋭さが伺えます。今でも古びない、時代を超えた名歌のひとつ。
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