たぶん心身問題が中心になると思いますが、テーマに関連する本や論文、記事など、思いつくまま気の向くままの論点の要約・紹介・疑問、可能ならば議論を考えています。
コミュニティの継続可能性に管理人自身が疑問があるので、見込みがなければ撤収します(弱気)。
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そのような論文と一連の流れがあったのですね!先行者はたくさんいそうですね。やっぱり一人で独学でやるといけませんね〜(汗)。そうなると、関係とは情報の連動であり、知そのものであるという主張は新しいものでもなさそうですね。
私はグレゴリー・ベイトソンの情報とは「差異を生む差異」であるという定義とソシュールの言語学から、感覚器官にも言語、記号にも「取りうる可能性からの選択」という関係性が共通していて、それらが情報の定義とそこから得られる関係の定義と合致していると考えました。
そして、公開しているところでは書いていませんが、ベイトソンの議論やソシュール言語学から考えられる情報を待ち受けている状態、「可能性を並べて選択を待ち受ける」という振る舞い、集合の中から何かが取り出されるのを待っている状態、それはまさに「比べている」という行為であると考えて、話を進めています。集合の要素は差異と同一性によって区別されるものなので、そこから何かを取り出すということは、差異と同一性を識別することと同義になり、それは、「比べる」ということの基本的な構造だと思いました。
そう考えると、何かと何かを比べたときに「関係」は見出されるという話にもなってきます。これは日常的な感覚から言ってわかりやすいと思います。この考え方から、プラトンやアリストテレスがイデアや実体を用いて論駁しようとした相対主義者たちとの関係、絶対的なもの、相対的なもの、それらと「比べる」というものの関係がより鮮明に浮かび上がるように思っています。知識とは関係であるのに、プラトンとアリストテレスはその点についてはイデアと実体を考えることで、知の本質に逆行してしまっていたという形です。
あと、そうですね…。すみません、群論の内容を知らないので、なんとも言えないがところがあるのですが、こと認識において情報理論の情報の定義から関係を考えるのはいくつかの点で優れているところがあると思います。
情報理論の情報の定義から関係を考えることが優れているのは、それが関係よりも粒度の小さい単位であるという点と、未知性と偶然性、さらに誤りの可能性を考慮に入れることができるという点です。
関係(選択の連動)は情報(選択)と完全に同じではなく、情報のほうが小さい単位だと思っています。情報の定義(選択)から関係を考えれば、関係をより細かく認識することができます。先のように、比較している状態、選択を待ち受ける状態(確率しか知ることのできない状態)、まだ関係が紡がれていない状態を表現することができます。
また、群論は一方に対する他方の対応が決まっているのではないかと思いますが、実際に情報を獲得する状況では一方に対し他方は未知のケースのほうが多いはずです(最初から知っていたり、わかったりするのなら、情報による認識は必要ありません)。知の探究はわからない対応を考えていくことにあると思います。
情報理論は、何が選ばれるかわからない状況で選ばれるということを選択肢の数、さらにそれが選ばれる確率という考え方で見事に表現していると思います。
また、この世には偶然的に一度きりで二度繰り返さない関係というのがあり得ると思います。認識の粒度を関係よりも小さく分割すれば、容易にそれを把握することができると思います。
加えて、この世には誤った情報、知識、認識というものがありえます。関係から粒度を落とせば、誤った情報、誤った知識(うまく関係の紡げない情報と知識)がありうることを考えることができ、誤った認識を描写することができます。
誤り、未知性、偶然性、また単位としての粒度の小ささを考慮に入れるのであれば、関係の定義は情報理論の情報の定義から考えると、わかりやすいと思います。とはいえ、結局群論を知らないので、群論がそういった考え方が可能なのかはわからないのですが(汗)。(^_^;)
そうですね、お話を聞いていると結局私の話は、高度に専門的に抽象化されたものの、アマチュアによる日常的な言葉への翻案にすぎないかもしれないなと思いました。ただ、知が関係であるということが正しければ、あらゆる学問は必然的に何らかの関係を探求するものだと思っています。
比較の話をしましたが、実は他にもいろいろな話題にも本のトピックは飛んでいます!ゴチャゴチャと詰め合わせたので、人間の行為と物理的な影響なども可能性からの選択という考え方で認識できるとか、独我論の真偽は決定不可能だとか、「問うこと」や「禅問答」は可能性からの選択というフレームから見ればどう表現できるのか、「関係の限界」とは人間の認識の限界であるとか、なんやかんやです。正直、こんな断言していいのかと迷いながら突っ切ったところもあり、先行者がいると少し安心かもしれません。
素人の議論ですが、時間があれば本の全体を読んでみていただければと思います!
カッシーラーの「群の概念と知覚の理論についての考察」という論文では、数学の群の概念と認識との関係について議論をしています。
群というのは、代数学の一種です。代数学というと、二次方程式の解の公式のように、係数を用いて、解を記述できるか、という学問からはじまったのですが、ガロアという人は、解の記述ではなく、解の間の「関係」に着目しました。
解の間の関係を「演算」(関数)で結びつて考え、その演算に成り立つ性質(対称性)を研究する学問として、群論を発達させました。(ガロアは若くして死んでしまいましたが)
フッサールは、主観(現象)から、客観(関係)が構成されると考えたので、すべての学問の基礎として現象学を提案しましたが、カッシーラーも、学問としての基礎として「関係」があると考えており、「実体概念と関数概念」にはあまり触れられていませんが、上記論文では、群論と認識論を結びつけようとしています。
同じような試み(群と認識論を結びつける試み)は、ニューラルネットワークモデルで有名なマカロック&ピッツや、アフォーダンスのギブソン、発達心理のピアジェなども行っています。
ピアジェも、「学問は、個から関係、関係から構造」へと発展すると言っています。関係とはなにかというのは、関係のネットワークである構造から理解しないといけないということだと思います。
意識の理論で有名な統合情報理論を研究しているトノーニは、情報を、まさに、選択可能性から定義しようとしています。たくさんの選択肢から選ぶほうが情報が大きいと考えて、意識の定量化の基礎としています。シャノンと違って、選択肢の箱の数を変量として考えています。
私は、トノーニとは逆のことを考えています。
選択肢の多さで測定されるのは、情報自体ではなく、情報を入れておくための箱(空間の大きさ)であると思います。情報自体は、数学的空間内の多様体のように、なんらかの関数あるいは方程式であると考えています。
つまり、情報とは、関係であると考えています。
意識は、ビット列のようなパターンから「関係(情報)」を取り出すメカニズムだと思っていますが、脳が関係とは何かあらかじめ知っていないと、それはできないのではないかと思っています。無秩序のパターンを制約することで、意味を与えるのだと思います。
では、関係とはどうやって定義されているのか?
その答えの1つが、カッシーラーが言うように、群という数学的構造が、関係というものを定義している、ということだと考えています。
AとはBである。BとはCである、といっても無限後退してしまうのですが、「関係」とは何かを考える上で、数学的な構造を基礎として考えるということを、カッシーラーは主張していたのだと思います。
認識論では、関係が意識に依存するのであれば、なぜ主観から客観が構築できるのか、ということがカント以来問題になっていたと思いますが、数学が持つ客観性というか、他に解がないために、多くの人が共有するということなのだと思います。
私は、関係というのは、数学における公理のようなもので、意識を作るためにあらかじめある方程式のようなものだと考えています。それは拘束条件であり、意識が、パターンから関係を取り出すための制約にもなっていると思います。(そして、生物はそれをある程度共有していると思います)
方程式とは何だ、というと、異なるものを同じと見なす条件を決めるもので、「同じ」とは何だ、というと、もう答えられなくなります。
なんだか、結局は、関係とは、A=Bのような方程式であるというと、結局、スタート地点に戻った感じはありますが。。。。関係とは何かを考える学問が数学であるということは言えると思います。
難しい問題です。
実体概念と関数概念を何度もお読みとは恐れ入りました(汗)。私は目を通したくらいです。
そうですね!物理学はなにがしかの尺度による測定がベースにありますよね。大まかに言って、物理学それ自体が現実世界を認識する最も洗練された尺度だと思います。私の本の議論では、物理学に限らずあらゆる認識は全て尺度としての性質が本質にあり、それは集合からの選択という、情報理論の情報の定義から基礎づけることができ、関係の概念をそれを元に基礎づけられるのではないかという建付けになっています。
古来関係を分類して、分析する試みは確かにありますね!ただ、それらの議論は関係にはこれこれこういった種類があり、その性質は…ということを説明しますが、関係という概念それ自体は自明のものとしており、関係一般とはそもそも何かという問い方はあまりされていなかったのではないかと思います。まあ、正直そこまで知識がないので、あったかなかったかわかりませんが!(^_^;)
カッシラーを例に挙げているのは、実体に対して、関数という考え方を取り上げるその仕方を含めて、私の考える関係とは何かという考えに一番肉薄していたためでした。
人間の意識がどのようにして関係を把握しているのかと言うのは、すごい深い問題ですね!ただ、正直私にとって意識の問題は、アプローチによるところはありますが、難しすぎてかなり遠いなと感じるところがあります。私の歩みではたどり着ける気がしません。^^;
カッシーラーも、物理学の前提として「尺度」がまずあるという議論をしておりましたね。(実体概念と関数概念は何度か読みました!)
ご存知とは思いますが、ヒュームは「関係」をいくつかに分類しておりました。反対、同一性、近さ、因果などです。(知性について、だったと思います)
生物はなぜ、「関係」を認識できるのだろうか?という点は、「意識」とも関係する問題だと思います。感覚ニューロンの発火パターンに過ぎないものから、どうやって関係の構造を発見できるのか?というのが、人工知能の究極的なゴールであるとも思います。
(因果関係が一番ミステリアスで重要と感じますが、まずは、同一性や近さについて、研究しています。)
いいんですか!ありがとうございます!すみません、長くなってしまいましたが、紹介させていただきます!私は8〜9年前に大学を卒業したころから、在野で「関係とは一体なんだろう?」ということについて考えてきました。
その問題に興味を持ったきっかけとしては、柄谷行人という批評家、哲学者が「国家は他の国家に対して国家である」と言っていたことからでした。私はそれを、「国家は他の国家との関係において国家となる」と解釈しました。
その時、ふとそれはもっと普遍的な事柄ではないかと思いました。「万物は何かとの関係においてそのものである」と。例えば、地上にある一つの安定した物体を考えてみます。しかし、地上にあるほとんどの物体は例えば太陽の近くまで近づけると、高温にさらされることで一瞬にして蒸発して、別の物体に代わってしまうと思います。地上に存在する物質はその周囲の環境との関係によって安定してそのものであるのであって、それ自体としていついかなる時もそのものであるのではありません。
あるいは、概念的なもの、例えば「犬」という言葉を思い浮かべます。しかし、私たちが言葉で思い浮かべる概念は、その言語の話者に対してのみその概念であるのであって、違う言語の話者で日本語の話せない人にとって、「犬」はイヌではありません。
また、あるいは例えば地上の物体もまた詳細に見れば小さな原子同士の関係によってそのものである、関係の束です。
そこまで考えて、万物は関係であると考えたときに、では、「関係」それ自体とは一体何なのかという疑問に思い当たりました。
そこから、「関係」そのものとは何か、8〜9年間中断もありながら、考え続けた結論を『誰も知らない夢の果てから』という本に記して出版しました。と言っても、ほぼほぼ自費出版で、学会での吟味も受けていない内容なので、どこまで正しいのか分からないところもありますが。
本書で私の出した結論としては「関係」とは「知」そのものであるということです。マルクス・ガブリエルのような相関主義批判の現代の流れとは逆向きに進んでしまっているのですが、私自身としては7割くらいの確信があります。そんな感じで、関係にまつわるいくつかのトピックが本になっています。尖ったこと言おうとして無理してる感じのところもありますが…。
ここで本文の一部を公開しているので、もしもよろしければ、読んでいただければと思います。
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n9737b56f7edc
以上が本の説明になります!長々とすみません!ありがとうございました!
逆丸カツハさん、当コミュにご参加頂き有り難うございます。
御本を出されたそうですが、軽く紹介していただければ幸いです。あまり込み入ったルールはないので、何でも書き込みオーケーです。
今後ともよろしくお願いします。
美東さんに招待いただきました(ありがとうございます!)私の哲学への関心は「意識」というよりも、「関係って何なんだろう」ということにずっと向いてきたので、あまり発言はできないかもしれませんが、勉強していきたいと思います。よろしくお願いします。m(_ _)m
人間関係でぶつかることへの恐怖について。【他人との摩擦・衝突】
https://www.youtube.com/watch?v=yz_-n_E6OHM&t=322s
「自意識」というのは哲学における最大のテーマだと思うが、それは外界との相互作用により起生しているのではないかと(逆説的かもしれないが)思われる。
ということで、「ミラーニューロン」に注目しています。
Kindle Direct Publishingで「心身問題 下向き因果のメカニズム」という本を書きました。
以前書いた本の中にも、「下向き因果」については書いているのですが、その部分だけに特化したものです。説明したい内容は大きく違いがありませんが、書き方は大分変わりました。
まだ、電子版のみですが、ペーパーバックも現在準備しています。
又聞きで、OISTの谷先生が読んでくれたと聞いたのですが、意味がわからんと言っていたそうで、「もっとわかりやすく書かなければ」と思い、書きました。
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