山本周五郎『鼓くらべ』を読むトピックです。
各々の読みを共有し、互いの読みを深めましょう!
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月に春目ださん、私はそれもできると思います。よきライバルを得て高めあう、そういう王道なストーリー大好きです。「ガラスの仮面」の北島マヤと姫川亜弓とか。たとえが古いかな…汗
なるほど…。市之丞は芸においてとても高い領域で苦悩していたのですね。確かに、芸そのものにおいて市之丞やお留伊のような覚悟をみせた芸能人は見たことがないかもしれません笑。しかしそのような場面を我々がテレビ越しに読み取れないだけで、きっと舞台裏や彼らの心中ではその高みで苦悩することもあったのではないかという気がします。…確かに不祥事と並べては市之丞に失礼ですね笑。
月に春目ださんの問いですが、難しいですね。そもそも芸を追及している芸能人ってどのくらいいるんでしょう。不祥事といっても、モラルや法律上の不祥事と、芸を裏切る不祥事とは違うような。不倫は個人のモラルですし、薬物は法律の線引き上の問題(アルコールは合法で、大麻は違法など)。市之丞は、お留伊が自分と同じ魂を持つと見たので、あの友割り鼓の話をしたんだと思います。自分に厳しい人間ほど、人には優しいと考えると、たぶん、市之丞は他人にあれこれいうようなタイプではない気がします。
「鼓くらべ」を初めて読んだのは、中学校の教科書。多感な時期、受験戦争で疲れていた心に、市之丞とお留伊の潔さが染み入りました。「芸の本質」へ向かう純粋な2人の心にしびれました。
競うこと、ランキング、数値化、あらゆる業界にはびこる。学校や会社で人は点数化され、中古車から土地となんでも査定される。その中で、本質に向かう心を忘れないようにと教えてもらいました。中学生だった私は、さっそく父にお勧め。父の本棚に周五郎作品が増えていったのはいい思い出です。数十年後、中学生の娘にお勧めしたが、「よくわからない」orz
「すべて芸術は、人の心を楽しませ、清くし、高めるために役立つべきもの」であるならば、かつてないほど上手な鼓を打ったお留伊は観衆の為にも打ち続けるべきではなかったかと私などは考えてしまいますが、、何よりも先に清浄な暖かい心が必要だと説き腕まで折ってしまった市之丞に壮絶ささへ感じました。また、「清浄な温かい心がない限り、なんの値打ちもない」という市之丞は不祥事を起こした芸能人にどのような目を向けるのか気になります。そして、再生を許すか許さないかどうかも…。山本周五郎は時代小説の大家という認識でしたが、幅広い!
ヨックムドさん、そうそう、まさにその部分。現代の感覚から言えば、腕を折るなんてもったいない…となりますが、私はここに切腹との類似を感じます。鼓打ちにとって腕を折るというのは、芸にとっての死を意味します。
「虚空遍歴」面白そうですね!私も、鼓くらべを思い出しながら読んでみたいです。
itokakeさん
腕を折ったのは芸を裏切ってしまったから…鼓を割ってしまったときの演奏は鼓を「自分だけの欲を満足させたりする道具」にしていたということなんでしょうね。
山本周五郎「虚空遍歴」を読んでいますが、純粋な芸の評価が欲しいと言って、お坊ちゃんが巷間の辛酸をなめる話です。腕を折るまではしませんが、ぼろぼろになります。この長編では己の欲が洗われた後に芸を極めるのかと期待しております。
競うことで磨かれていく芸と、芸は芸として鍛錬して磨かれるものがあると思います。市之丞は芸の本質は心だと言います。「すべて芸術は、人の心を楽しませ、清くし、高めるために役立つべきもので、そのためにだれかを負かそうとしたり、人を押しのけて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない。鼓を打つにも、絵をかくにも、清浄な温かい心がない限り、なんの値打ちもない」腕を折ったのは、芸を裏切ってしまったから。求めた芸の境地に達する資格を失ったから、とも言えます。そしてお留伊なら、そこへたどり着けると信じた。
市之丞が行方をくらまし腕を折ってしまったのはなぜか。
相手の鼓を割ってしまったから?相手に罪悪感を抱いたから?己の加害性に醜さを感じたから?お宇多の表情を見てお留伊が打つ手を止めたのがヒントになろうかと思うのですが、それでも腕を折るほどなのか。皆さんはどう思いますか?
簡体字、読みにくいですよね…。ごめんなさい。オリンピックといえば、1964年の「東京オリンピック」という記録映画があります。普段スポーツ観戦をしない私でも、美しいと思える内容。理由①、10月開催。観客が長袖を着ていて気付きました。現在のようにスポンサー中心の真夏開催ではない。理由②選手の多くにスポーツとは別の仕事がある。現在のスポーツ選手は、スポーツだけを専業としてやっている人が多い印象。素質と努力だけで勝つことが可能だったオリンピックが、1964にはあった気がします。
簡体字が読みにくかったです。内容は…オリンピックとパラリンピックの合間に読むという大変含蓄のあるものでした。勝ち負けとか順位とか、芸とはそんなんじゃないんだ、という割と単純な意思を感じました。それでなくても勝つために暴力やドーピングが後を絶ちません。己の心のままに、邪念を捨てて向き合うことの大切さを感じました。
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