自分の責任において選びとる自由な冒険には、 いかなる事前の正当化を持ち出すことも許されておらず、むしろ、 そうした要求をまったく放棄して行なわれ るゆえに「自由な行動」なのだ、自分自身の善を知ることを自由に放棄することにおいて、そこに神の善なる出来事が生じるのだ、神に委ねるとはそういうことだ、と。人類への使命に殉じたとも言われるような人物にこのような言葉を語られてしまうと、信仰に弱く、自己義認に余念のない私などは圧倒されてしまう。
以上、責任倫理の構造についてざっくりと。詳細はまた勉強していつかnoteに挙げるか、人に話すかしたい。ここからは獄中書簡集で取り上げられている「成人した世界」について。十字架の神学のラディカルな再構築の試みだと私は理解している。
[機械仕掛けの神は死んだ] ボンヘッファーにとって、前近代的な迷信を打破して「神という作業仮説無しに」自律的に運行する世界を発見した啓蒙主義と、その人間中心主義的な傲りの帰結(=二度の大戦という神不在経験の極致)は、弁証学・神義論に突きつけられた当惑すべき課題でも無ければ、中近世の世界観へ回帰するよう要請するものでもないようだ。
「神は、われわれが神なき生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。われわれと共にいたもう神とは、われ われをお見捨てになる神なのだ(マルコ一五・三四〔わが神、わが神、なぜわたしをお見 捨てになったのですか〕)。神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせたもう神こそ、われわれがたえずその御前に立っているところの神なのだ」
[「神の御前で、 神と共に、われわれは神なしに生きる」] それは私たちを見捨てる「神の御前」で、見捨てられ苦難する私達のもとにへり下って連帯されるキリストにおける「神と共に」、宗教的世界観を形成する作業仮説1※や機械仕掛け※2の「神なし」に、生きるということ。彼の十字架の神学は「この世を神なきものとみる経験を神にたいする信仰と結合している」(著者)。
この世界の無神性を苦しむことにおいて、キリストの連帯が人間の無力を力に変える、ということだろうか。モルトマンの言う「目覚めることと、祈ること」…即事的(ザッハリヒ)に目の前の無神的な惨状に「目醒めつつ」、神の到来する終末待望において「祈り」、その先取りに参与するという姿勢に繋がっていると思う。
※1[作業仮説] 具体例が見つからなかったが、「全ての出来事はいかなる不条理であれ神の意志に従って起きる」といった摂理信仰などがそうだろうか?
※2[機械仕掛けの神] デウス・エクス・マキナ。例えば信じて祈る者を必ずその窮地から助けてくれる、救ってくれるスーパーパワーとして「全能」を捉える見方だろうか。現代神義論は、アウシュヴィッツで祈られた祈りを忘却してはならない以上、こうした見方は棄却されざるを得ないと思う。
[「成人した世界は、いっそう無神的だが、おそらくそれゆえに成人 していない世界よりも、いっそう神に近い」] 近現代とは、自由主義神学の批判者が言うような「啓蒙」というサタンに惑わされた本来の福音からの逸脱ではなくて、神が人間への愛ゆえに、精神をも尽くした全人的な応答を期待するパートナーとして成熟させる為に与えられた、青年期のチャレンジではないか?
中近世の予定調和的な世界観を固持することは、神のチャレンジに応えない幼年期への退行ではないのか?初めから「十字架において啓示された神ご自身が『成人した世界』を要請している」のではないか?という問いかけが含まれている。
「キリスト者であるとは、人間であることだ。それは、一つの人間類型ではなく、 キリストがわれわれの中に創造したもう人間のことだ。キリスト者を作るのは、宗 教的な行為ではなく、この世の生活の中で神の苦難に参与することなのだ」!
[「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マタイ26-40・41)] ゲッセマネの夜に迫るような現代社会の無神的現実に立脚して、その只中で生きるという「苦い杯」を飲み干して、その幻滅に耐えることにおいて、キリストと共に目覚めて、その道に従いながら、夜明けを待つべきでは無いのか?
彼の考える「非宗教的なキリスト教」において、啓蒙は信仰を「宗教」から十字架における本来の姿に連れ戻す契機として捉えられている。本来の姿とは、ボンヘッファーが繰り返し指摘するように、十字架における無力なる神の御姿だ。
「神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるままに委せたもう。神は、 この世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにして のみ、神は、われわれのもとに降り、またわれわれを助けたもう。 キリストの助け は、彼の全能によってではなく、彼の弱さに、つまり、彼の苦難による。 …ここに、あらゆる宗教にたいする決定的な相違がある…聖書は、人間を神の無力と 苦難とに向かわせる。苦しむ神だけが、助けをあたえたもうことができる」
「聖書の神は、その無力さによって、この世における力と場所とを獲得したもう神なのだ。 《この世的解釈》は、おそらく、ここで始まらなければならないだろう」 無力なる神は、この世において働くことのない無関心な神ではない。私たちの神不在経験の只中で、神ご自身が十字架においてその経験に連帯し、復活と新しい創造の「産みの苦しみ」(モルトマン )を引き受けておられる事を信じること。そこに希望があると思う。
[連帯のキリスト論] 本書に引用されたH・E・テートにいわく「苦難を受ける者は、まずみずからのうちに、健康で活動的な人が見いだすのとは まったく別の、力と意味合いとを発見する。苦しみを克服することが問題なのでは ない。すなわち、苦しみを自分にとって異質なものとして突き放すのではなく、む しろ、もはや失われることのないものとして、みずからの生に取り込むことが問題 なのである。さらに重要なことは、苦難の中で、共に苦しむという連帯感、
つまり、 他の苦しんでいる者との深い結びつきが芽生えてくる。その結果、自分の苦難は、 たんに脅威であったりマイナスであると受け止められるのではなく、苦しむ者たち の交わりの共同体への大きな入口としてとらえられるのである。そのとき、苦難か ら救い出されることではなく、共に苦しむことの連帯から生じるところのものが前面に出てくるのである」それが『無力の力強さ』(モルトマン著)の正体だろうか?(まだ読んで無いのでわからない)
[信仰に支えられた啓蒙] ボンヘッファーは啓蒙による十字架の発見からさらに一歩踏み込んで、理性がその本来の機能を回復するためには、信仰 による解放が必要だと指摘しているようだ。人間の理性はいかに前時代の迷信を打破したところで、無神的現実の前で、無神的展望と共に、神なしに踏みとどまることが出来るほど強靭ではない。
伝統宗教が力を失った近現代には、宗教は見えない形で現れると佐藤優が指摘したように、啓蒙が打ち破ったはずの「迷信」は特定の地上的な価値を絶対視する幻想 や偶像崇拝において持続し潜在している。こうした疑似宗教?に陥ることなく、「この世を冷静に即事的に眺め、この世を冷静にザッハリヒに形成する責任をとること を可能にするのは、ボンヘッファーにとって、キリストの苦難にもとづく信仰です。このような意味で、キリスト信仰こそは究極的に真の《啓蒙》を可能にする根拠となるもの だ、と彼は考えていたと言うべきでしょう」(著者)
十字架に啓蒙性を汲み取ったボンヘッファーの神学は、これからも既存教会に対する挑戦であり続けるだろうと思いつつ...実は個人的に本書の中で最も印象深かったのは、賛美歌『よき力にわれかこまれ』が彼の獄中詩によるという発見でした。思わずtwitterに弾き語りの録音あげちゃった!ゲッセマネ感の強い夜には、必ずこの曲を歌ってキリストの復活を想起するようにしています。 -fin
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自分の責任において選びとる自由な冒険には、 いかなる事前の正当化を持ち出すことも許されておらず、むしろ、 そうした要求をまったく放棄して行なわれ るゆえに「自由な行動」なのだ、自分自身の善を知ることを自由に放棄することにおいて、そこに神の善なる出来事が生じるのだ、神に委ねるとはそういうことだ、と。人類への使命に殉じたとも言われるような人物にこのような言葉を語られてしまうと、信仰に弱く、自己義認に余念のない私などは圧倒されてしまう。
以上、責任倫理の構造についてざっくりと。詳細はまた勉強していつかnoteに挙げるか、人に話すかしたい。ここからは獄中書簡集で取り上げられている「成人した世界」について。十字架の神学のラディカルな再構築の試みだと私は理解している。
[機械仕掛けの神は死んだ] ボンヘッファーにとって、前近代的な迷信を打破して「神という作業仮説無しに」自律的に運行する世界を発見した啓蒙主義と、その人間中心主義的な傲りの帰結(=二度の大戦という神不在経験の極致)は、弁証学・神義論に突きつけられた当惑すべき課題でも無ければ、中近世の世界観へ回帰するよう要請するものでもないようだ。
「神は、われわれが神なき生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。われわれと共にいたもう神とは、われ われをお見捨てになる神なのだ(マルコ一五・三四〔わが神、わが神、なぜわたしをお見 捨てになったのですか〕)。神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせたもう神こそ、われわれがたえずその御前に立っているところの神なのだ」
[「神の御前で、 神と共に、われわれは神なしに生きる」] それは私たちを見捨てる「神の御前」で、見捨てられ苦難する私達のもとにへり下って連帯されるキリストにおける「神と共に」、宗教的世界観を形成する作業仮説1※や機械仕掛け※2の「神なし」に、生きるということ。彼の十字架の神学は「この世を神なきものとみる経験を神にたいする信仰と結合している」(著者)。
この世界の無神性を苦しむことにおいて、キリストの連帯が人間の無力を力に変える、ということだろうか。モルトマンの言う「目覚めることと、祈ること」…即事的(ザッハリヒ)に目の前の無神的な惨状に「目醒めつつ」、神の到来する終末待望において「祈り」、その先取りに参与するという姿勢に繋がっていると思う。
※1[作業仮説] 具体例が見つからなかったが、「全ての出来事はいかなる不条理であれ神の意志に従って起きる」といった摂理信仰などがそうだろうか?
※2[機械仕掛けの神] デウス・エクス・マキナ。例えば信じて祈る者を必ずその窮地から助けてくれる、救ってくれるスーパーパワーとして「全能」を捉える見方だろうか。現代神義論は、アウシュヴィッツで祈られた祈りを忘却してはならない以上、こうした見方は棄却されざるを得ないと思う。
[「成人した世界は、いっそう無神的だが、おそらくそれゆえに成人 していない世界よりも、いっそう神に近い」] 近現代とは、自由主義神学の批判者が言うような「啓蒙」というサタンに惑わされた本来の福音からの逸脱ではなくて、神が人間への愛ゆえに、精神をも尽くした全人的な応答を期待するパートナーとして成熟させる為に与えられた、青年期のチャレンジではないか?
中近世の予定調和的な世界観を固持することは、神のチャレンジに応えない幼年期への退行ではないのか?初めから「十字架において啓示された神ご自身が『成人した世界』を要請している」のではないか?という問いかけが含まれている。
「キリスト者であるとは、人間であることだ。それは、一つの人間類型ではなく、 キリストがわれわれの中に創造したもう人間のことだ。キリスト者を作るのは、宗 教的な行為ではなく、この世の生活の中で神の苦難に参与することなのだ」!
[「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マタイ26-40・41)] ゲッセマネの夜に迫るような現代社会の無神的現実に立脚して、その只中で生きるという「苦い杯」を飲み干して、その幻滅に耐えることにおいて、キリストと共に目覚めて、その道に従いながら、夜明けを待つべきでは無いのか?
彼の考える「非宗教的なキリスト教」において、啓蒙は信仰を「宗教」から十字架における本来の姿に連れ戻す契機として捉えられている。本来の姿とは、ボンヘッファーが繰り返し指摘するように、十字架における無力なる神の御姿だ。
「神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるままに委せたもう。神は、 この世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにして のみ、神は、われわれのもとに降り、またわれわれを助けたもう。 キリストの助け は、彼の全能によってではなく、彼の弱さに、つまり、彼の苦難による。 …ここに、あらゆる宗教にたいする決定的な相違がある…聖書は、人間を神の無力と 苦難とに向かわせる。苦しむ神だけが、助けをあたえたもうことができる」
「聖書の神は、その無力さによって、この世における力と場所とを獲得したもう神なのだ。 《この世的解釈》は、おそらく、ここで始まらなければならないだろう」 無力なる神は、この世において働くことのない無関心な神ではない。私たちの神不在経験の只中で、神ご自身が十字架においてその経験に連帯し、復活と新しい創造の「産みの苦しみ」(モルトマン )を引き受けておられる事を信じること。そこに希望があると思う。
[連帯のキリスト論] 本書に引用されたH・E・テートにいわく「苦難を受ける者は、まずみずからのうちに、健康で活動的な人が見いだすのとは まったく別の、力と意味合いとを発見する。苦しみを克服することが問題なのでは ない。すなわち、苦しみを自分にとって異質なものとして突き放すのではなく、む しろ、もはや失われることのないものとして、みずからの生に取り込むことが問題 なのである。さらに重要なことは、苦難の中で、共に苦しむという連帯感、
つまり、 他の苦しんでいる者との深い結びつきが芽生えてくる。その結果、自分の苦難は、 たんに脅威であったりマイナスであると受け止められるのではなく、苦しむ者たち の交わりの共同体への大きな入口としてとらえられるのである。そのとき、苦難か ら救い出されることではなく、共に苦しむことの連帯から生じるところのものが前面に出てくるのである」それが『無力の力強さ』(モルトマン著)の正体だろうか?(まだ読んで無いのでわからない)
[信仰に支えられた啓蒙] ボンヘッファーは啓蒙による十字架の発見からさらに一歩踏み込んで、理性がその本来の機能を回復するためには、信仰 による解放が必要だと指摘しているようだ。人間の理性はいかに前時代の迷信を打破したところで、無神的現実の前で、無神的展望と共に、神なしに踏みとどまることが出来るほど強靭ではない。
伝統宗教が力を失った近現代には、宗教は見えない形で現れると佐藤優が指摘したように、啓蒙が打ち破ったはずの「迷信」は特定の地上的な価値を絶対視する幻想 や偶像崇拝において持続し潜在している。こうした疑似宗教?に陥ることなく、「この世を冷静に即事的に眺め、この世を冷静にザッハリヒに形成する責任をとること を可能にするのは、ボンヘッファーにとって、キリストの苦難にもとづく信仰です。このような意味で、キリスト信仰こそは究極的に真の《啓蒙》を可能にする根拠となるもの だ、と彼は考えていたと言うべきでしょう」(著者)
十字架に啓蒙性を汲み取ったボンヘッファーの神学は、これからも既存教会に対する挑戦であり続けるだろうと思いつつ...実は個人的に本書の中で最も印象深かったのは、賛美歌『よき力にわれかこまれ』が彼の獄中詩によるという発見でした。思わずtwitterに弾き語りの録音あげちゃった!ゲッセマネ感の強い夜には、必ずこの曲を歌ってキリストの復活を想起するようにしています。 -fin