私が日記もしくは日記的な文を好む理由。それについて考えたみた。まずなんとなく浮かんだのが"まったり"と"癒やし"というはふたつのワードだ。しかし、"まったり"も"癒やし"も日記の特質ではない。日記をスペシャライズするものではない。それは単に私がまったりした文や癒やされる文を好むというだけであって、日記や日記的を好む理由とはならない。まったりしていれば、日記でなくてもエッセイやフィクションだって構わないのだ。(言いかえれば、まったりしていない、癒やしがない日記は好きではない)
前提として、あるものを好む理由を考える時に、そのあるものが他と差異化されること=特質からピックした方が、正解にたどり着きやすいだろう。そう考えた。では日記の特質とは何か?
だから2020年に彼が亡くなったニュースを目にしたとき、ぽっかりと心に穴があいたような虚しい気もちになったことを覚えている。本当にぼっかりと。ところで彼が生涯に渡って追求したと言われている「文壇」とは何なのか?思うに文壇いうことばが持つイメージが、少しずつ変容しているような気がする。しかしそもそも「文壇」が何だったのかその輪郭もわかっていない。つまりそれが変容している気がする一方で、変容するビフォアーの状態をそもそもわかっていないのだ。これでは当然アフターの状態もわからない。
お風呂の半身浴の時が読書タイム♪女流作家さんの私小説がとっても好き♡実用系もたまーに、読ませていただいてます。
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