が気づかせ、このカウンセリングによって発狂が少し治まっています。そうするとフィービーに会いたくなったのだ思いました。フィービーはまだ擦れてない人の象徴で安心して好きになることが出来たのだと思います。最後の回転木馬が擦れてない童心の表現だと思いました。主人公が「ライ麦畑のキャッチャー」がしたいのは純粋な子供たちを純粋なまま大人にさせることがしたいと云う気持ちだと思いました。学校の落書きはそれら阻む「世間」という物の暗喩だと思いました。
でいましたが残された4人も個々に傷を負いながらの主人公との決別であったように思います。4人と離れたことで主人公は人生が様変わりし結果として幸か不幸かと言ったところですが沙羅と出会えてるから幸でしょう。主人公の幸せはかつての友人の犠牲の上に成り立っていたと気付かされました。ですから「巡礼」の旅だったと思います。
【追記】最初の方で幼い頃主人公が食べることが怖かったのは人間を理解できない故に生きる事を嫌悪してるからだと思いました。食べるという行為は生への渇望の意思表示になるからだと思いました。
【追記】最後主人公に希望が出たと捉えてましたが……主人公が太宰治だとすると亡くなる1ヶ月前に書かれた作品とのことなので希望がもたらされたいたのか分からなくなりました。この作品は太宰治を見抜いて助けてくれた方達への謝意と自分を偽り周りを欺くと不幸になることへの懺悔の気持ちを表した遺書のようなものなのかと思いました。
活動がこれからも終わることなくし続けることが出来そこに一抹の安心を得たのではないかと思いました。最後に人生の歩み方を見つけたあかりにとって当面はこのことが支えになるでしょう。
読書は子供の頃から人並みにしてましたが感想文を書くのが苦手でした💦感想文もさることながら何かにつけてコメントを求められると窮していました😰
感想で気の利いた咄嗟の一言が返せるように練習したいと思います📗📚
(純文学では私なりの解釈を書き連ねていきたいと思います✒️)
よろしくお願いします🙄🐰
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