たく事態を一変させてしまった。この列島の、どこに負荷がかかっていたのかをはっきり示したからだ。わたしたちは、生きられる世界をなんとしてでもつくる必要があるだろう。それは、わたしたちが譲り受け、生きてきたこの世を、子々孫々へ継ぐ大事な仕事である。⚫︎いつの頃からなのだろう、こことは異なる場所の基準で、この土地の暮らしを形容しようとする。例えば善意で語られる「格差」という言葉も、使い方を誤ると、ほんとうに生きる姿を見失うことになるだろう。金の多寡の論理で農漁村を語ろうとすれば、そこのすべてが貧しいということに
なる。農漁村の生業が、そんなにも暗く汚いものに映るようになった近代とは、いったい何だろう。そうした価値観の錯誤の先に原発事故があることに気がつくときだ。<東北>の村で生まれ育った自分は、ここの言葉でない表現で、ここの土地を形容しようとする言葉に過剰に反応してしまう。どんなに善意で語られていたとしても、そんな言葉には、無意識の力関係が潜んでいるように思えるからだ。モノカルチャーに塗り込められた近代はむごたらしく、都市に一元化した世界をつくり出そうとしてきた。
長、トクホやダイエット食品を買い食いすれば経済成長、食品ロスを増やせばその処理事業でも経済成長というぐあいに。逆に、自分が家庭菜園で有機栽培した野菜を、自分で料理して、おいしく健康な食生活をすることは、人と自然がハッピーにはなれても、GDPには計上されず経済成長につながらないのです。それが、生まれる前から私たちがその中で生きている、資本主義経済のシステムです。
ほどにスリリングな政治哲学的な営みがいったいどこにあるというのか。ネグリはこのスリルへと、その「悦ばしき知」の実践へと我々を強力に誘ってもいる。ドゥルーズとグァタリ、そしてフーコーとともに。あるいは、彼ら亡きいまとなっては、たったひとりで。
導くことができるのは演繹推論である。帰納推論とアブダクション推論は、つねに正しい答えにたどり着けるわけではない。帰納推論は、観察したサンプルの99%があてはまるある事象にもとづいて、「すべてのXはAである」という一般化をしても、AでないXが一事例でも見つかれば論理的には偽になってしまう。アブダクション推論はそもそも仮説にすぎない。科学史において誤った仮説は星の数ほど存在する。しかし、この三つの推論のうち新しい知識を生むのは、帰納推論とアブダクション推論であり、演繹推論は新たな知識を創造しない。
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導くことができるのは演繹推論である。帰納推論とアブダクション推論は、つねに正しい答えにたどり着けるわけではない。帰納推論は、観察したサンプルの99%があてはまるある事象にもとづいて、「すべてのXはAである」という一般化をしても、AでないXが一事例でも見つかれば論理的には偽になってしまう。アブダクション推論はそもそも仮説にすぎない。科学史において誤った仮説は星の数ほど存在する。しかし、この三つの推論のうち新しい知識を生むのは、帰納推論とアブダクション推論であり、演繹推論は新たな知識を創造しない。