
熊本の実学党は横井小楠を思想上の教主とし、維新後、洋学校開設など県の西洋化を急速に進め、保守派(学校党・敬神党)から憎悪された。敬神党(神風連)は幕末の神秘主義的国学者林桜園を教主とし、宇気比(神の意志を問うて行動を決める)を行い、極端なまでに帯刀を重んじた。明治9年の廃刀令は神風党にとり存在否定だった。林桜園が暗殺されて以来神風連の中心人物であった太田黒伴雄は、前原一誠や宮崎車之助を始め各地の不平分子との盟約を固めた。しかし西郷は洋物を許容する男、薩摩は国粋排外の思想がないため、盟約を持ちかけなかった。
BIG5indexで測定すると、離脱している元犯罪者と現役の犯罪者の人格特性は有意に異なっていなかったが、一般母集団と異なっていた。離脱している元犯罪者と現役の犯罪者のいずれの群も、経済的に恵まれず虐待又は著しいネグレクトに遭い家族に対する義務に縛られた幼少期を過ごし、多種の犯罪を多発した過去があり薬物と親和性がある。現役の犯罪者は、人生のターニングポイントの記述において離脱した元犯罪者よりも「主体としての言葉」が少なく、自分の将来にもたらされる結果に対し自分個人の力がほとんど及ばないと思っていた。
離脱した元犯罪者群は自身の過去を意味のあるものと語り、生成的な活動を志向し(援助者がそれにより援助を得ていることがしばしばある)、中核自己(本当の私)は善であるとのイメージを持っている。
帰郷後東京毎日新聞の事務長となったが、明治大帝皇母英照皇太后崩御に伴う恩赦で15360人が釈放されると知り、新聞社を辞め東京出獄人保護所原寄宿舎設立。建物は青山学院長の本多庸一から神田南神保町の家(伊藤玄朴の家)を借りた。明治36年市区改正のため柳原古着屋町の国有地に移転。 移転先は出獄人の奉仕により建設され、費用は大隈重信の私庭で催された園遊会により集められた。大正12年の大震災で滅失したが、御下賜金一千円と政府からの復興資金一万円を受け、かつて錦絵の配布をした神田須田町3丁目に新築移転した。
新築移転にあたり、原胤昭個人で行っていた出獄人保護事業を、財団法人東京保護会として行うこととしたが、原胤昭の米寿のお祝いに(!)解散した。原胤昭は、貧民・前科者の住宅改善のため、田端に50戸の長屋を建築し、教養や貯金の奨励をした。児童虐待防止の活動をし、対象者の情報を子細に「保護カード」にまとめた。昭和17年、90歳で死没。
熱り立つ薩摩人を抑えるため、旧藩の厩跡に私学校ができ、篠原国幹が監督することとなった。大久保は、西郷の気を晴らすべく、西郷従道をして警視庁組の兵を借りて長崎から台湾に出兵させたが、それを陸軍卿山縣さえ知らなかった。途中で諸外国からの横槍を受け大隈らが派兵を止めようとするも強引に出兵し、その内実は、国民への公示や在外公館への通牒はもちろん派遣先の視察もせず兵站も不足する無計画なものだった。薩摩系が権力を私物化したと言ってよく、参議木戸孝允はこれを痛烈に論じて辞職した。
司法卿江藤新平は、行政権からの司法権独立を目指していた。京都府大参事の長州人植村正直は、日本最初の小学校創設や、図書館・梅毒を駆逐する駆黴院・貧民授産所・癲狂院・観象台を作るなど、京都で先駆的事業を行ったが、京都の代表的財閥小野組の東京への転籍願を阻止した。小野組が京都裁判所に訴えたため、植村には罰金6円が科されたがこれを無視した。これにより、植村は瀆職罪で入牢されたが、江藤の辞職翌日、木戸により釈放された。大警視川路利良は西郷の辞職を私事として顧みぬほど理論家で植村の政治的釈放に憤慨した。
征韓論が破れて一月後、西郷ら在野人の矢面に立ちたくないと押しつけあった内務卿が伊藤博文に決まり、翌年1月に内務省が発足することになった。以降、政府の責任者が太政官(三条)から内務卿大久保利通になり近代的官僚体制が確立し、警察組織において川路が、陸軍内において山縣有朋が権力を握るようになる。
いくら読んでもどんどん忘れていくので、備忘用に使っています。
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