2丁目の店子さんが池袋近辺の風俗を利用するという描写はなんかリアルだった。今は「風俗」という看板がやりたいこととそぐわなくなってきたとのことで、サービス内容はそのままに「対話サロン」として運営しているらしい。誠実なスタンスだと感じる。
人とは共有しづらい性や愛の領域において、また女性の置かれる性的欲望からの阻害の状況下で、「普通」になれない=規範通りに女をやれないことによって、自信を失った女性たちが、ヘテロ女性の中にもたくさんいる。おそらくだからこそ、著者が取り上げるお客さんはヘテロ女性が多く、店のコンセプト自体、セクシュアリティの確立していない孤独な人を対象にしているのだと思う。彼女たちはきっと、理論を知るだけでは救われない。密室での感覚を伴う接触や固有の他者との体験を必要としている。
かなり理不尽な状況に陥っても家族と向き合い続ける著者が立派だなと思うが、これができるのは根本的に愛情深い家庭だったからだろう。それでも一人で全部背負うのが限界になったとき、「なんでもいい。あったかいところに座りたい。」と逃げ込んだのが年末の映画館だったこと、心に迫るものがあった。映画そのものには全然集中できなかったとしても、暗闇の中で2時間ひとりきりになれる場所として、映画館は存在している。
女家族で込み入った話をしている時に何も知らない父親が乱入してきて、余計に話をややこしくする感じ、かなりわかる、と思って笑ってしまった。ダウン症の姉と母の間のやり取りには、二人の間だけで重ねられてきた濃密な48年の時間が伺えて、ここに知らない物語があるなと感じる。
基本的には作曲は一人でするものだと思っているが、ポップスにおいてはジャンルや形式がある程度定式化されているし、それらを組み合わせてゲーム的に複数人でプレイすることもできる。コライトで年間150曲作っている人が「作りたくて作っている曲は1曲もない、作らなければならない曲が常に目の前にある」と言っていたのが印象的だった。岡嶋かな多のスウェーデンでの日々は憧れる。
読んでいたら、おすすめTwitter映画アカウントとして急に自分のTwitterのTLみたいな研究者リストが出てきて面白かった。著者のツイッターアカウントを見に行こうとしたら、炎上のタイミングでアカウント削除されてた方だった!あのアイスの広告イラストのどこにセクシャルなコードが忍ばされているか、という分析、面白かったのに。
自身のリハビリの経験について語った言葉だが、驚くほど性暴力被害者の語りと共通している。いずれにせよ、ふれる側(接触のデザインの主導権を握る側)に自分の心身の声を拾ってもらえないことによる、身体を侵犯される屈辱なのだと思う。
一方で、信頼と安心のもとで自身の身体を他者に委ね、自己の感覚を拡張していく感覚、自他の境界が曖昧になる感覚、そしてその感覚の帰属先よりも現在の応答の方が優先される状態は、良いセックスをしているときの感覚にとても近い。
音楽と芸術と性と哲学
眼差しと欲望の解体
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作者自身は10年ぐらい前に「フェミニズム等を意識して書いていない」みたいなことを明言しているらしいが...