人は思い考えたことを表明しコミュニケーションして生きている。数多のコミュニケーション手段として<応報><抑止><追放><祝祭>等もまたある。それはあまりにも一般的なフレームワークであり、人間が生きている限り否定できることではない。決定論の立場に立つなら、人間のコミュニケーション、間主観的関係に基づく生を否定するほかないのだ。
ケアは権力関係であるという洞察は目からウロコ。神殿や宮殿となるような場所にはしばしば孤児や女性や障碍者や戦争難民などが身を寄せ、そこの有力者(主に男性)の世話=ケアを担ったという。その主が彼(女)等への依存を強め、従わせ「所有」したとき「奴隷」が誕生したのだと。いまもなお、ケア行為には「隷従」的側面が強くあることを鑑みれば、現代のケア論にとっても重要な視点となる気がする。
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ケアは権力関係であるという洞察は目からウロコ。神殿や宮殿となるような場所にはしばしば孤児や女性や障碍者や戦争難民などが身を寄せ、そこの有力者(主に男性)の世話=ケアを担ったという。その主が彼(女)等への依存を強め、従わせ「所有」したとき「奴隷」が誕生したのだと。いまもなお、ケア行為には「隷従」的側面が強くあることを鑑みれば、現代のケア論にとっても重要な視点となる気がする。