形式:新書
出版社:筑摩書房
本書のタイトルはゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか」をもじっているが、「ウンコの来し方行く末を考えることは、つまるところ、私たち人間の来し方行く末を考えることにほかならない」と言う通り我々人類はウンコに関しても循環させて持続可能な社会に組み込んでいく必要がある。今の社会で、野糞や人糞肥料は衛生や環境面で現実的ではないが、廃棄物処理をエシカルなサイクルに組み込んでいく必要はあるのだろう。トイレットペーパーが存在しない時代、何で拭いていたかの調査も興味深い、拭き➡蕗
糞尿は西欧社会では「隠す」ものであり、「廃棄」するもので、「危険物」に他ならなかった。日本では駅の便所は屎尿がたくさん集まる場所で、戦後1948年頃神奈川県のある駅では「夜な夜な汲み取り泥棒が横行するため、汲み取り口に南京錠をかけたこともあったという」しかし1950年代に化学肥料万能時代に突入すると、その駅は少なくない料金を支払って汲み取りを依頼するしかなくなった、そしてこの頃バキュームカーの導入が始まった。アメリカのコーンベルトでは戦後もトウモロコシのヒゲをトイレの落とし紙代わりに使っていた地区があった
市場規模は、今のお金に換算すると8億~12億円。食べ物の内容の違いから、武家の糞尿は高価に売買されたという。やがて、都市でウンコが「汚物」扱いになり、地域固有の清掃行政と戦後下水道物語へ発展していく。これぞウンコの栄枯盛衰物語である。うんちく本も知識が広がって面白い。
そこで、権力は、それまで個人間で売買されていたし尿処分を公的なものとし、下水処理システムを整えてし尿を処分するようになった。こうして、ウンコは「汚物」となっていったのである。 しかし、下水処理システムを通じた都市部のし尿処分は一気に進んだというわけではなく、例えば、明治の繊維工場で住み込みで働いていた女工たちのし尿は、近隣の農村に売られてもいた。→
こうした循環が完全に断ち切られたのは戦後のアメリカ統治期であり、(たとえば、本書でも戦後、米軍に占領されたことによって沖縄にくみ取り式便所が整備されたことが紹介されている。)これによってし尿を堆肥として活用する仕方は消えていった。 ウンコが「汚物」になっていったのは、ちょうど日本の西欧化・近代化と軌を一にするのである。
化学合成添加物まみれになっているのは残飯も同じだし、どうせ化学合成添加物まみれにして食べるのだから、少々の汚染はもはや仕方ないのではないだろうか。マイクロプラスチックだって、既に人体内組織に入り込んでいるというし。つまり、化学合成添加物を含んでいるから糞尿からできる堆肥は田畑で使えないという言い分が、やりたくない理由にしか聞こえなくなってきた。
が、酸素を送り込まなければならない(つまりエネルギーを要する)。◇旧来は砂地処理や海洋投棄がなされていた糞尿処理。バキュームカーの開発、清掃行政のパイオニアは川崎市(東京も大阪市も拒否した)。◆なお尻拭き用道具。紙の他、葉、木片、藁・縄、棒があると。また紙の種類も多様。ちなみに紙以外は凡そ明治末でお役御免(一部地域では昭和まで残存したらしいが)。海外では、例えば米国のトウモロコシのひげ。
その事にほんの少しの寂しさを感じさせ、キレイと汚い、有益と無益、自然と命の循環について考えさせられた、5月の締めくくりの本。
私の小さい時では,古い電車ではまだ垂れ流し式が残っており,駅に停車中や都市部では使用できない使用になっていました。逆に言うならば,それ以外の場所の線路には排泄物が垂れ流しになっていたというのも,驚きと言わざるを得ません。まあ,現在の西武鉄道や東武鉄道は,都市の排泄物を郊外の農地に供給していた役割もあった時代もありました。駅にはたくさんの人が集まることもあり,トイレも大忙し。鉄道と排泄物の関係も見逃せません。
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