形式:単行本(ソフトカバー)
出版社:筑摩書房
こんばんわ。突然失礼いたします。浅羽さんは横須賀高校時代に、SFファンジンを刊行されていたそうですね。また『ニセ学生マニュアル』シリーズは、三部作のうちの前2作は、学者をネタにしての、シニカルな価値相対化の極致の描写の連続であり。SFファンであった私も、その価値相対ぶりから「この人は仲間だ」と、当時、思いながら読んだ記憶があります。
で,どうやら最近の小中学生は星新一を読まないらしい。そりゃそうか本書を読んでいるとショートショートのアイデアの中には現在では実現していることがあまりにも多いみたいで現実を語ったSFなんて面白いわけもなく。さてどうすればいいのだろう。僕に良いアイデアは今のところ無い。そう言えば息子が中学生の頃(15年以上いやもっと前)に星新一を読んでみたら と買い与えて薦めてみたが熱中して読んでいた風ではなかった。すまぬ。
【読者感想あとがき】本書を読み終えてあらためて星新一のどこが何が良いのかと考えてみるとそれは『星新一』という名前そのものではないか とふと思い付きました。いつか誰かが言った事があるのかもしれませんが僕としては今初めて自分で考えて気が付きました。『星新一』こそがブランドである! あえて自惚れ的誉れ としてここに書いておきます。すまぬ。
「人物描写もこなし、主人公の年齢や容姿も具体化し、個性を描いた小説らしい小説」が「実は」あるのです。といって『城のなかの人』につなぐのはどうか。これではやっぱり小説は人物を描いて、共感されてナンボと言っているようである。それに描写にすぐれた話なら『夕暮れの車』だろ、と言いたい。まあ、そこは余談。 いくつか城昌幸への言及があるが、『根の無い話』のCに触れてほしかったと思う。特に『門のある家』を語るのなら。
コメント失礼します。ご推薦により購入しました(・∀・)
この本のレビューとして「小松左京と筒井康隆への言及が多すぎる。この著者は小松・筒井の特別なファンなのか?」と書かれている方がいて、微妙な気持ちに…。私は浅羽さんの7歳年下ですが。「我々の世代」のSFファンであれば、星新一を論じるのであれば、小松左京・筒井康隆との交流を濃厚に書くのが、当然ではと感じた次第です。
作家の創造力は否定しないが過剰に”読み取りすぎる”のは結構危ういように思う。また、私が個人的にディストピアが余り好きではない理由が、まさに第8章の"「寓話にしている」と「寓話になっている」"で説明してもらえていて腑に落ちた。やはり「いかなる分野とも接触でき」(by小松左京)、同時に「あらゆる分野から一定の距離をおき、その影響から無縁で、超然としていられ」(by星新一)るのがSFの最大の魅力だろうか。その他にも星新一と村田沙耶香の類似性や新人賞の審査員としての姿勢など読みどころは多くある。
彼が構想していたという「人物関係図だけで成立している作品」、"図"を省くとすると「正十二面体関係」(円城塔)が思い浮かぶが考えていたのはそっち方面じゃない気がする。
今のところ、山田正紀の神狩り、光瀬龍の百億の昼と千億の夜、小松左京の果しなき流れの果てに、などを持ち歩いてます。星新一なら、さまざまな迷路、ご依頼の件、凶夢など30が良いかな。
コメント失礼します。「ウェット」「ドライ」の比較、わかります。
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