形式:新書
出版社:中央公論新社
関係くらいだろう。純文学と大衆文学の区分など初めから無意味であり、その隔たりが曖昧になってきましたなどという叙述が無価値なのだ。例えば“戯作性”という用語を前近代の否定すべきものとするが、坂口安吾の用法により私は文学の要素として肯定的イメージを抱いており、事実その後も何度も復活してくる。また奥野は“通俗性”という用語を否定的に用い、これが小林秀雄病の温床なのだと気付いた。奥野のトンチキな造語の中で唯一有用なのは〈内的必然性〉だ。文学にまず根底的に必要なのはこれである。どうしても書かずにはおれない心から湧き
上がってくるもの。これ以外を読まされてはたまらないが、実際世に溢れているのはノルマ、ルーティン、冗長、惰性、やっつけ仕事、水増し。芸術家の中でなぜ作家だけが自殺するか、実人生と作品の一致が問われるか、文学史に時代の流れが描かれるか、それは〈内的必然性〉と通底するのだ。即ち文学とは生き方であり、奥野のいうようにそれが宿命的に反逆性を帯びるのは、権力=体制が必然的に人間疎外を強いるからである。進歩発展を夢見れたのが近代、現代が「未知なる状況への突入」とするならば、それは〈窮屈で退屈な時代〉として固まったのだ。
大正になってようやく近代文学が根付いたときには、世界的に近代が終わり現代になっていた→文学の革命・新感覚派、革命の文学・プロレタリア。あるいは第二次大戦後の文学がいっとき現代から近代文学に先祖帰りし空疎になっていく→第三の新人や三島、安部など。
西洋の文学コンプレックスとマルクス主義へのコンプレックスが文学を前進、模索させる両輪になっている。この両コンプレックスがなくなったことで、ついに日本の現代文学が始まる、という結び。
承前「文学青年たちは自分のために――自己拡充、自己完成のために、文学を書くということに自信を持ったのです。私小説は文学史的に見ると、被害者的、破滅的な暗い自然主義文学を母親として持ち、自己拡充、調和的な明るい「白樺」派を父親に持つことによって、日本文学の主流としての正当性をながく保持し得たのです」
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関係くらいだろう。純文学と大衆文学の区分など初めから無意味であり、その隔たりが曖昧になってきましたなどという叙述が無価値なのだ。例えば“戯作性”という用語を前近代の否定すべきものとするが、坂口安吾の用法により私は文学の要素として肯定的イメージを抱いており、事実その後も何度も復活してくる。また奥野は“通俗性”という用語を否定的に用い、これが小林秀雄病の温床なのだと気付いた。奥野のトンチキな造語の中で唯一有用なのは〈内的必然性〉だ。文学にまず根底的に必要なのはこれである。どうしても書かずにはおれない心から湧き
上がってくるもの。これ以外を読まされてはたまらないが、実際世に溢れているのはノルマ、ルーティン、冗長、惰性、やっつけ仕事、水増し。芸術家の中でなぜ作家だけが自殺するか、実人生と作品の一致が問われるか、文学史に時代の流れが描かれるか、それは〈内的必然性〉と通底するのだ。即ち文学とは生き方であり、奥野のいうようにそれが宿命的に反逆性を帯びるのは、権力=体制が必然的に人間疎外を強いるからである。進歩発展を夢見れたのが近代、現代が「未知なる状況への突入」とするならば、それは〈窮屈で退屈な時代〉として固まったのだ。