映画があるんですね。ピラトの妻は夢を見たと言ってイエスを殺すなとピラトに言いますがピラトは迷いながら神官や民衆の意見に従ったと書いてあります。素直に読めばピラトは極悪人ではないですね。何故自分にピラトは極悪人と言うすり込みがされたのか不思議です。中世の聖書が民衆の物では無かった時代に司教達が作ったイメージか、聖書が万民のものになった現代もキリスト教徒はこう言うイメージを持っていてそれに自分が感化されたか。やはり不思議です。
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なくイデオロギーであると言う。今もそのためパレスチナ紛争は続く。日本人には想像のできない事であるがヘブライ語に時制が無いと言うことは昔と今とは繋がっているので彼らは2000年前の戦争を今も戦っているとも解釈できると。『ユダの福音書』が1970年代に発見されユダの裏切りはイエスとの共謀の上であり、結果としてキリスト教は世界宗教になったが一方でユダと言うユダヤ人によくある名前からユダヤ人は裏切り者だと曲解されナチスのホロコースト迄続くと言う悲劇を見る。ユダヤ、イスラムと言う異文化を堪能した本であった。
作者が対談した秋吉輝雄と言う聖書学者は父福永武彦の母方の従兄弟だそうだ。おじの年代に当たるが6歳上なだけで旧来から数少ない父方の付き合いのある人であると。秋吉先生によると原罪とはエデンの園を追われた事、すなわち「死すべき運命を生きる事」と言う事だそうだ。実に普遍的である。遠藤周作や三浦綾子が描いた原罪はもっとおどろおどろしい物だった様な気がする。いや、よく考えると「死すべき運命を生きる」と言うのも結構おどろおどろしい事である。