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詩における改行について
トピック

2015/08/30 10:49

 こんにちは。

 以前から疑問に感じていたことがありまして、せっかくこのようなコミュニティがあるのだからと思い、勇気を出してトピックを立ててみました。なにか助言などありましたら、お暇なときでも構いませんので、書きこみいただければ幸いです。



 詩の改行というシステムが苦手です。もっと端的にいえば、そうする理由がよくわかりません。なぜそこで切ってしまうのか、切断された一行一行に強力な意味が備わっているのか、そんなこんな考えていると、まったく先へ進めず、ほんの短い詩であっても、読むのに異常に時間がかかってしまいます(もちろん、話の本質としては、時間をかけたくないということではなく、手慣れた方々はどのような態度で改行に向き合っているのかということです)。

 好きな詩人を例に挙げれば、安藤元雄の「物語」で、


ひとつの墓地の傍で/昔の樫が路に倒れ/石畳の向うで/鶏どもが逃げまどうのだ/野と森との方へ道は走り/両腕を拡げ語り尽そうとする女たち/いきなりかげる/焦茶色の森/はもう見えない


 これはほとんど唯一と言っていい、わたしの好きな「改行」です。「墓地」「倒れる」「逃げる」「(「逃げる」を先行詞的に置いたうえでの)走る」「かげる」などの暗いニュアンスとともに、様々な生物/無生物が、一行目からどんどん提示されていったのに、最後の改行=目を切る=一瞬の間を生じさせたあと、どんでん返しさながら「もう見えない」、つまり丹念に印象づけられた物々のイメージを一気に消し去る、この手順をたいへんおもしろく思います。

 一方、同じ安藤の詩で、たとえば「沈む町」の、


立ったまま沈んで行く塔のために/私たちは言うだろうか 時がまだ来ない/だからこうなるほかはないのだ と/裂かれた繃帯を砂に埋めて/てのひらを払って立ち上り/茶碗一杯の悲劇を求めて歩き出すだろうか


 このとき、「裂かれた繃帯を砂に埋めて、てのひらを払って立ち上り、……だろうか。」だと、ひとつの地続きの文章と化し、意味が接続されてしまうため、各々の文が喚起する場面を大事に置くには、ぜひとも改行する必要があった、と説明されれば納得しますし、実際のところわたしはそう読みました。

 しかし、二連目三連目の、「私たちは言うだろうか 時がまだ来ない/だからこうなるほかはないのだ と」というのは、散文的に考えれば、「私たちは言うだろうか/時がまだ来ない だからこうなるほかはないのだ/と(最後の「と」は無くてもよい)」となるはずです。そうしないからには、ここには一行ごとに強力な意図が隠されていると思うのが自然な気がしますが、せいぜい自由律俳句的な破調を感じるくらいで、特別な感興を覚えられないのです。

 もし仮に、「確かにそれは意味不明だ。失敗作なのだろう」と考えるとすると、


「狙われている!/窓の外で僕は立ちどまる/こういう時だな 外套の襟を立てるのは/かたかたと鳴っていたっけ 石が/固い表情を崩さずに待っていたっけ 僕が/石の中で不意に動くおまえの眼」(田村隆一「目撃者」)


 も意味不明ですし、


「雨は木から葉を追ひ払つた/村では音楽を必要としない たとへ木は裸であらうとも、暗い地上を象牙の鍵を打つてゐる彼らの輝かしい影の歩調を」(左川ちか「果実の午後」)


 も意味不明です。

 であれば、わたしが安藤元雄や清岡卓行を好むのは、わりあい散文的に読めるからという、詩への態度としては不純(?)な動機からきているのではないか、そんな気持ちになってしまうのです。

 小説ですと、改行が多かろうが少なかろうが、中身として楽しければ問題なく読めています。だから、けっきょくのところ、詩と相対した際の、波長の合わせ方をつかめきれていないのだと思います。

 皆様は詩の改行について、どのように読み進めていますか? また、なにか痺れるような改行詩に出会ったことはありますでしょうか?


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