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日本近現代史研究会

家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)より
トピック

辻貴之
2022/07/11 20:49

西郷隆盛ほど後世の日本人に誤解された人物はいないのではないでしょうか。著者はなお西郷隆盛に好意的な面がありますが、同書は「西郷神話」を解体するうえでも大きく役立つと思います。明日以降、重要な個所を引用します。

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辻貴之
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(引用を続けます。征韓論争のころです)

 さらに不思議なのは、西郷が傍目にも異常なほどはしゃいでいることである。朝鮮問題を重大な外交問題と受け止め、解決を模索していたとしたら、このような喜び方を、人はするであろか。むしろこれからのこと(前途)を考え、暗澹たる気持ちになってもおかしくない。「朝鮮との関係は当時誰が担当しても容易に打開できなかったことはあきらかだった」からである(牧原憲夫『明治七年の大論争』』)。
(中略)
西郷がようやく「死に場所」を見つけ、その安堵感から、はしゃいだとしか思えない。

パン屑
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松方デフレについて詳しく調べてはおりませんが、相当日本社会に影を落としたのではないかという気がします。世界恐慌も世界中に大変な影を落としましたので。

辻貴之
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西南戦争のあと、武力行使への抑止にはつながりましたが、経済面ではまずインフレが起こり、そのあと松方正義によるいわゆる「松方デフレ」が生じてしまいました。インフレが生じたのは、政府が戦争遂行のため不換紙幣を大量に発行したからです。実際は、西南戦争の後始末も、けっこう大変だったと思います。

パン屑
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転換期は古い物を壊さなければいけない局面がどうしても出てきますから、破壊衝動の持ち主にとっては絶好の活躍舞台になってしまうのは仕方がないのかもしれません。
ただ、西郷隆盛が不平士族を集めて西南戦争を起こして敗れた事で、結果的には士族の反乱が起こらなくなり、国内が安定したのも事実ですが。

辻貴之
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(引用続く)

 もっとも、そうはいっても、複雑で常に妥協を余儀なくされる現実の外交世界においては、実際のところ西郷の精神(理念)はものの役には立たないであろう。しかし、西郷はこうした純な精神の下に生きた。そして、西郷がこのような精神を形成するに至ったのは、やはり彼が倒幕(旧体制の打破)に成功したという、稀有な経験の持ち主であったことが大きく関わった。換言すれば、この精神は西郷でしか持ちえなかった大局観であったといえる。

辻貴之
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日本を壊したい人は、過去のどの時代にもあったと思います。ただし、明治以降、文明が発達し、多くの人々の交流が活発となってきたがゆえに、「日本を壊したい」という無意識の快感が相互に共鳴して、大きな潮流となってきた面があります。おそらくは、その先駆けとなったのが、西郷隆盛ではなかったでしょうか。

パン屑
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西郷の考えは、太平洋戦争で日本を滅亡寸前に持っていった考え方と大して変わらないように思えます。
体面のために巻き添えになる人々はどうなるのでしょう。

辻貴之
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これらは、いずれも国家および国政担当者のあるべき姿についての言及であった。そして、こうした西郷の一連の言葉を貫いていたのは、「太平に馴れる」ことを拒否する精神であり、国としてのあるべき姿を国政担当者としてひたすら追い求め、国家の体面を損なわないためには、場合によっては、国家の滅亡と自身の死も辞さないとする「戦いの精神」であった。そして、この精神が、小にしては彼をして常に戦場にあらしめんとし、大にしては王道外交の信奉(提唱)者とさせたのである。

辻貴之
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(引用続く)

 ではどうして西郷はたんなる死ではなく戦死にこだわったのか。この秘密を解く鍵となる言葉が『南洲翁遺訓』中に残されている。それは次のような一連の発言である。「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に委縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん」「国の凌辱せらるる(=はずかしめられる)に当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を踏み、議を尽くすは政府の本務なり」(以下省略)

辻貴之
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西郷隆盛については、死後「西郷神話」が作られました。頭山満らがそうした運動をしたのです。その影響が今日でも続いている状態です。こうした点についても、次回以降引用します。

パン屑
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西郷隆盛について詳しく学んだわけではありませんが、思い返してみれば西郷隆盛の行動には建設的なものがありません。
幕末という古い体制を壊さなければならない時には活躍出来ても、明治時代になってからは征韓論や西南戦争という近代化の足を大きく引っ張る行動になっています。

辻貴之
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同書p420からです。

 第三のそれは、いま挙げた第二説とも密接に関わる、死への願望によるとする説である。西郷が、島津斉彬の没後、中央政局で活躍する過程で、死に場所や死に時を常に探っているような側面が色濃くあったことについては先述した。(中略)したがって、この延長線上に、西郷が朝鮮の地で死のうと思い至ったとしても、なんら不思議ではない。さらに、(中略)西郷はたんに死ぬことだけを望んだわけではなかったことである。彼にとって、死は「戦死」でなければならなかった。

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