1.浄土は極楽として穢土とは絶対に相容れぬ。が、その相容れないところに即非(横超)の論理が出来て、浄土は穢土にとりて最も親しきものとなる。穢土は浄土の外にはなく、浄土は穢土の外にはない。
2.浄土を時間的に死後におき、空間的に西方十万億土におくのは、娑婆の人の考えに対して妥協性を示すものである。非常の言は常人の耳に入り難き故、しばらく有相有漏の立場を認めたにすぎぬ。厳密に云えば、こんなことを教えるのは仮説である。
3.選ばれた者だけが浄土往生するのではない。阿弥の方から見れば、選ぶも選ばれるもない。こちらに決定の信心が出来さえすれば、その時、極速円満に往生成就する。何れも浄土往生に決まっていて、地獄往生はせぬのである。実は、我らはいつも浄土に居るのであるが、自力の論理の故に、そこを脱出しようとのみもがく。
4.阿弥の名号は浄土と穢土とを非連続的に連続させる。阿弥召喚の声を聞くことは、すなわちその名号を称するところである。これは次篇「名号論」にて明らかめる。
5.善悪・是非などを言う対立は此土での事で、浄土には一切そんなものはない。それ故、定善、散善を杖にしては浄土往生は不可能である。そんなものの頼りになるは此土でのことである。浄土に往く道は「無礙の道」である。この道は娑婆のものではない。娑婆では、どこへ行っても突き当たってばかりいなければならぬ。それ故、すべての対立的なものを捨てて、絶対不二なるもの、すなわち他力の本願に乗じなければならぬ。
6.浄土と阿弥陀とは一体である。娑婆と吾等と一体であるように。浄土と娑婆の対立は、阿弥と吾等との対立を意味する。それ故、阿弥の心に動く大悲は、吾等の心を占めている煩悩に対して、絶対に相容れぬものとして働きかける。こちらに煩悩があるということは、向うに絶対無縁の大悲があるということである。それ故、煩悩をそのままにして大悲弘誓(ぐぜい)の船に乗り移ることが可能となる。
7.階段は娑婆だけにある。浄土は無階段である。横超の経験があれば一超直入如来地である。吾等は即時に浄土の住民となる。そうなれば何れも同じである。称名の一心に徹するとは、一念相応の義である。こちらの一念と阿弥の本願と函蓋相応(かんがいそうおう)することである。念仏三昧は、この相応の端的を云う。
8.浄土三部経所述の浄土は、熱帯住民の富贍(ふせん)なる想像力によりて最も感性的に描かれたものである。吾等温帯の民族はそれを文字通りに受け入れるべきではなかろう。その裏に流れている心理を体得して、吾等は吾等の云い表し方にて浄土を叙するのが本当である。
9.娑婆は疑いもなく苦界である。それは、限られた世界、閉じられた地域であるからだ。吾等には本来仏性がある。この仏性‐すなわち阿弥陀如来の働きかけ‐が動き出て、我らは苦を感ずる。それが一たび感じられると、何とかしてそれを脱離せんとつとめる、このつとめが浄土への願生である。願生の切なるものが至心である。至心のところに弥陀の名号が聞かれて、信心決定(しんじんけつじょう)・阿惟越致(あゆいおっち)の境地に入る。
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1.浄土は極楽として穢土とは絶対に相容れぬ。が、その相容れないところに即非(横超)の論理が出来て、浄土は穢土にとりて最も親しきものとなる。穢土は浄土の外にはなく、浄土は穢土の外にはない。
2.浄土を時間的に死後におき、空間的に西方十万億土におくのは、娑婆の人の考えに対して妥協性を示すものである。非常の言は常人の耳に入り難き故、しばらく有相有漏の立場を認めたにすぎぬ。厳密に云えば、こんなことを教えるのは仮説である。
3.選ばれた者だけが浄土往生するのではない。阿弥の方から見れば、選ぶも選ばれるもない。こちらに決定の信心が出来さえすれば、その時、極速円満に往生成就する。何れも浄土往生に決まっていて、地獄往生はせぬのである。実は、我らはいつも浄土に居るのであるが、自力の論理の故に、そこを脱出しようとのみもがく。
4.阿弥の名号は浄土と穢土とを非連続的に連続させる。阿弥召喚の声を聞くことは、すなわちその名号を称するところである。これは次篇「名号論」にて明らかめる。
5.善悪・是非などを言う対立は此土での事で、浄土には一切そんなものはない。それ故、定善、散善を杖にしては浄土往生は不可能である。そんなものの頼りになるは此土でのことである。浄土に往く道は「無礙の道」である。この道は娑婆のものではない。娑婆では、どこへ行っても突き当たってばかりいなければならぬ。それ故、すべての対立的なものを捨てて、絶対不二なるもの、すなわち他力の本願に乗じなければならぬ。
6.浄土と阿弥陀とは一体である。娑婆と吾等と一体であるように。浄土と娑婆の対立は、阿弥と吾等との対立を意味する。それ故、阿弥の心に動く大悲は、吾等の心を占めている煩悩に対して、絶対に相容れぬものとして働きかける。こちらに煩悩があるということは、向うに絶対無縁の大悲があるということである。それ故、煩悩をそのままにして大悲弘誓(ぐぜい)の船に乗り移ることが可能となる。
7.階段は娑婆だけにある。浄土は無階段である。横超の経験があれば一超直入如来地である。吾等は即時に浄土の住民となる。そうなれば何れも同じである。称名の一心に徹するとは、一念相応の義である。こちらの一念と阿弥の本願と函蓋相応(かんがいそうおう)することである。念仏三昧は、この相応の端的を云う。
8.浄土三部経所述の浄土は、熱帯住民の富贍(ふせん)なる想像力によりて最も感性的に描かれたものである。吾等温帯の民族はそれを文字通りに受け入れるべきではなかろう。その裏に流れている心理を体得して、吾等は吾等の云い表し方にて浄土を叙するのが本当である。
9.娑婆は疑いもなく苦界である。それは、限られた世界、閉じられた地域であるからだ。吾等には本来仏性がある。この仏性‐すなわち阿弥陀如来の働きかけ‐が動き出て、我らは苦を感ずる。それが一たび感じられると、何とかしてそれを脱離せんとつとめる、このつとめが浄土への願生である。願生の切なるものが至心である。至心のところに弥陀の名号が聞かれて、信心決定(しんじんけつじょう)・阿惟越致(あゆいおっち)の境地に入る。