著者自身「歴史を語る物語というものの面白さと残酷さ」(220頁)を充分に理解し、実在の建礼門院が味わった運命の過酷さを思いやっている。我々は物語の論理(=後代の人々の都合や興味)を無批判に受け入れてしまっているのではないか?という「あとがき」の問いかけは重い。所詮はフィクションと割り切ることもできようが、生きた人間の歴史が基になっている以上、どうしてもそこで立ち止まらないわけにはいかない。
都落ちした平家が討伐されるのは当然のように思っていたが、考えてみれば彼らは現役の天皇と三種の神器を擁していたんですよね。それなのに、朝敵とされたのは源氏ではなく平家の方。当時は天皇家の家長(この場合は後白河院)こそが権力の正当性を保証する「院政の論理」で動いていたわけで、後白河を連れ出せなかったことは平家にとり痛恨の極みだった。源平の武力による対決という構図だけでは見落とすものが多い。
この本は再読だが、平安時代や院政に関する書籍を何冊か読んだ後だと、清盛の立ち位置についてより理解が深まった気がする。実際、平氏政権には武家政権としての先駆性よりも平安朝からの連続性を強く感じ、著者の言う「六波羅幕府」論はどんなものだろうかと思う。寧ろ、同じ本書の「平氏系新王朝」という表現の方が魅力的。外からちまちまと王権を掣肘した鎌倉幕府よりも、天皇を丸抱えにしてデカいことをやらかそうとした清盛の方がよっぽど気宇壮大だったのでは。
作者と恋仲だった資盛をはじめ、平家の公達が何人も登場。女房たちとの恋の駆け引きや歌の贈答など、彼らは宮廷文化にどっぷり浸かって生きていた。その上に戦争までやらされるのだから、そりゃあキツいだろう。たとえるなら『源氏物語』の登場人物が甲冑に身を固めて出陣、負けて都落ちしたり首を打たれたりするようなものだ。そんな非常識な事態が現実のものとなったわけで、当時の人々の衝撃はいかばかりか。
かつて恋人の資盛と共に朝顔の花を見、その儚さをあわれに感じたことがある。だが今にして思えば、花の方が人を見、あわれんでいたのかもしれない(155頁)。この感性の鋭さ、深さと暗さは尋常ではない。だが作者には、この哀切に満ちた記憶を文字の形で残そうとする意志の強さがある。書いて誰のためになるのか、自分でも分かっていなかったのかもしれないが、とにかく彼女は書いて伝えた。そのことに心が揺さぶられる。
「平氏の滅亡に直接的利害を感じたのは、当時の日本人のなかでほんの少数の人々であった。しかし平氏の滅亡という一つの集中された事件を媒介として、この時代の各地方、各階層の無数の人々の経験が互にむすびつき、共通の話題と記憶のもとに統一されてゆくのである…このような集中性は、事実そのものの構造と発展によって規定されているのであって、治承四年から文治元年にいたる六年間の歴史の迫力とすさまじさは、当時の人々のどのような想像力をもこえたものであった」(55頁)
『物語』において、平重盛・知盛と斎藤実盛の三名は未来を見通す予言者として性格づけられている。中でも、この傾向が最も強いのが重盛であるという(ただしキャラクターとしての完成度は知盛に譲る)。してみると、アニメ「平家物語」で重盛が能力者として描かれたのは古典に忠実だったということなのか。知っていてそうしたのなら凄いし、偶然の結果であるならそれはそれで面白い。史実→創作→二次創作の中で転変する人物像。
身分制社会の常で、能力や人柄ではなく血筋が決定的なファクターとなる。平家の面々について言えば、母親の出自や実家の勢力が極めて重要であった。小松家の子供たち(維盛、資盛、清経)について論じた第一章はこの点で興味深い。正妻の子でありながら外祖父が謀反人とされたため正嫡の座を失った清経にとり、世界は不条理に満ちていたことだろう。誰が見ても資質に欠けているのに嫡流の中心として重責を担わざるを得なかった宗盛にも、逆の意味で悲哀を感じる。
平家は上流貴族化したため一門のそれぞれが「家」単位の軍事力を持つようになり、加えて主流・庶流の争いが激しく、兵力や指揮系統の統一に失敗した。これは中世の軍隊が持つ構造的な問題で、戦術云々の話ではない。だが明治時代になると歴史家ではなく軍人が戦史を語るようになり、近代の軍事常識を無批判に遡及させた合戦イメージが出来上がってしまった。著者はこの点に繰り返し注意を喚起しているが、適切な指摘と思う。軍事史に対し、よく言われる「戦後史学の軍事アレルギー」よりも甚だしい悪影響を及ぼしたのではあるまいか。
内乱の時代は、一方で飢饉の時代でもあった。複数の同時代史料が飢饉による犯罪行為や人肉食などを描写するのに対し、鴨長明の『方丈記』にはそうした記録がなく、逆に人々の助け合いを書き留めているという(131頁)。これは飢饉を人災ではなく天災と見る長明の世界観によるものだが、史料の扱いの難しさをも物語る。仮に『方丈記』の記録しか残らなかったとしても、それをベースに史実を語るしかないんですよね。
一番面白かったのが川合康「中世武士の武芸と戦闘」。大柄な日本の弓を馬上から射る場合、右側(「妻手」)は広い範囲が死角となる。従って、当時の騎射戦は敵の右後方からアプローチしつつ追い越しざまに射つのが常道。位置取りが極めて重要で、馬はスピードばかりでなく小回りも求められる。有利な位置につこうとくるくる動き回る、ドッグファイトのようなイメージか。この技術を鍛えるためには、流鏑馬よりも犬追物の方が有効だった。
上司が主体となる現代の勤務評定と異なり、当時は「俺の手柄を認めろ。褒美をくれ」という下からの圧が強いから大変だ。恩賞をもらうため将軍への直訴を試みる(これ自体は合法)武士たちに対し、管領クラスの大将がなだめすかして戦線にとどめようとする局面もあった。中間管理職の悲哀。また、当時は自分や郎党の戦死・負傷も重要な功績として数えられ、軍忠状には手傷の様子まで具体的に書かれているのが生々しい。
著者は高校の教員であり、研究者の中では在野に近い立ち位置だが、「歴史学と歴史教育の融合」という高い志を持っている(「あとがき」より)。その意図を汲み、一般の読者が手に取りやすい「ソレイユ」シリーズで本書を出版した戎光祥出版の仕事は素晴らしい。こうした形で、様々な立場の研究者に発表の場が増えていけばと思う。
電話も無線もない時代のこととて、通信連絡には恐ろしく時間がかかった。そんな中、自分は鎌倉から動かず、指示を出すだけで平家を滅ぼした頼朝の統率力と胆力はとんでもないと思う。元寇の際、非常時と称して荘園から兵糧徴発の許可が出された(無論、幕府が勝手に許可したわけだが)一件も印象的。軍事政権による支配は、こうした「非常時」の永続化によって実現するものなのだろう。兵営国家論にもつながりそうな。
また、「自立した宗教としての神道が近代になって政策的につくりあげられた」(90頁)結果、神仏習合期に達成されていた高水準の宗教哲学が否定され、却って神道に「素朴な自然宗教」という定義付けがなされるようになった。この指摘もまことに興味深い。明治政府が神道を持ち上げたことの弊害は、想像以上に深刻なものだったのでは。
仏弟子の集団生活にルーツを持つ僧団の団結力と集会での合議による意思決定。寺の膨大な財産を管理する家政機関。本寺・末寺のネットワークと統制。そして師弟の関係に基づく継承システム。このように列挙されてみると、確かに中世の寺社勢力は貴族や武家に伍して政治の世界で生き抜くポテンシャルを持っていたことが分かる。あまりに成熟しすぎて内ゲバに陥るところまで似てしまう有様。
宗教的権威をバックに嗷訴を繰り返す僧兵たちの姿は確かに見苦しい。だが、専ら暴力と殺戮で権力を獲得していった武士のスタイルがこれより潔いかどうかは好みの問題でしかなく、歴史学が優劣を決める筋合いではない、と著者は喝破する(70頁)。ちなみに「僧兵」という言葉は同時代史料では確認できず、近代以降に(しかも彼らを否定的に見る立場から)作られたたものらしい。個人的にも「悪僧」の方が凄みがあって好きです。
歴史の進歩を所与のものとして捉え、「古代的」な東大寺支配の永続を「頽廃」と断ずるなど、今の目で見ればその史観には独自の窮屈さが感じられる。だが、古代→中世の展開を単純に予定調和的なものとして描写することなく、そこに携わった人々の営みを詳らかに描いていく点に本書の真骨頂がある。「…何故ならばその条件が崩れた後においても、或いは崩れた後においてはじめて人間の必死な努力が始まるからである。この努力が政治だと思う。この努力の成否、すなわち条件と努力との競合が存続の問題を決定する」(283頁)。
無論、相手がどんな大家だろうと恐れ入ることはないし、批判はどんどんしたらいいと思う。ただ、最近の日本史研究者が書いたものを読むと、唯物史観を批判しさえすれば何か意味のあることをやってのけたかのような、自己満足的な薄っぺらさを感じることもある。いやそれは山の裾野を迂回しただけで、山を越えてはないんじゃないですか?と。学術の発展に関しては「巨人の肩の上に立つ」という表現があるが、この恩恵を自ら放擲してしまっているのでは。
考えてみると、「天皇に皇子なく皇女のみ」「皇弟に男子あり」「上皇が存命」という天皇家の今の状況は、中世だったらかなり紛糾したんじゃないかと思う。秋篠宮家を担いで挙兵したり、上皇に院宣を出させようと工作したりする輩が現れてもおかしくない。皇室典範がある時代でよかったね…
早くも宇多上皇の段階で院政vs摂関の第一ラウンドが戦われていた。この両者の角逐は、本書の中でも最大の読みどころと思う。著者の指摘する通り、院政も摂関(外戚)も天皇を取り巻くミウチの権力なのであり、天皇の指名権をめぐって競合関係が生じるのは避けられない。政治勢力としての外戚など世界史の中では珍しくもない存在だが、院政のような形で君主が権力を奪還するケースは日本以外に例がないのでは。
後白河が福原で宋人と会った時のエピソードが印象的。古来、天皇は外国人を穢れとして忌避しており、本来は面会など考えられないのだが、後白河は「天皇辞めてる(しかも出家してる)からセーフ」という理屈だったらしい。また、院の近臣による意思決定も、儀礼化された太政官でのそれに比べるとはるかに小回りが利いて実用的だった。この辺りの使い勝手のよさが院政の魅力で、院たちももう天皇に戻りたいとは思わなかっただろう。それにしても、本書の後白河さんは行動がトリッキーすぎて、何がやりたいのか最後までよく分からなかった。
宮中の行事を見物した挙げ句、興奮して紫宸殿の庭を走り回る群衆。中宮定子の主催する法会に入り込み、施しを求める物乞い。内裏のセキュリティがこれほど甘いとは…無論、身分の壁は厳然としてあり、貴族たちは彼らに情け容赦ない軽蔑の目を向けている。だがその一方で、空間的には距離感がバグったかのように聖と賤が混じり合う。わかんねえなあ。平安時代侮るべからず。
著者の表現を借りるなら、「鎌倉武士たちの曾祖父の曾祖父たち」が本書の主役格である。一歩都から離れれば、武装し戦いに慣れた集団がそこかしこに蟠踞し、我が物顔に振るっていた。しかし、彼らがいくら暴れ回ろうとも地方の富は確実に吸い上げられ、都の貴族たちの贅沢な暮らしを支えた。また、何か問題があれば頼る先は中央の検非違使庁であったことも事実。平安期の国家システムって実は凄かったのか…と、この辺りは考えれば考えるほどよく分からなくなる。
父親の意向次第だが、当時は女性も財産を相続でき、実際「かぐや姫」も実資からかなりの所領をもらっていた。これに伴い、父親から独立した家政機関(政所や侍所など)が構成された。一方で、父や夫が早くに亡くなり庇護者を失うと、どんなに高貴な家柄の姫君でも没落の可能性があった。そうした女性たちは他の権力者(例えば藤原道長家など)に女房として仕えることを余儀なくされたが、これは大変な恥辱と見なされていた。等々、貴族社会の女性たちに関し様々な知見が得られる。
記録を残した実資さんの動きも興味深い。娘たちを溺愛する反面、身分の低い女性に生ませた長男は出家させてしまう酷薄なところも(家督は養子に譲られた)。また、2人の正妻の死を心から嘆く一方で、手近な女性に次々手をつけ何人も子供を作っている。同じ人間だから、現代人と同じく家族への愛情を持っていたはずなのだが、その表れ方は決して我々に理解できるものとは限らない。一筋縄ではいかんよなあ、という感想。
「御遺誡」の中では、中国古典からの引用やたとえ話が意外に多い。子孫に対して説得力を持たせる権威的な重しとして、中華帝国の存在感は大きかった。そのくせ、宇多天皇は「天皇たる者、異国の人間に会ってはならない」なんて言っていて、これが外国人との接触を穢れとする考え方につながっていったとのこと。憧れと排除という、日本人の両極端な対外意識はこの頃からのものであったのか。
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考えてみると、「天皇に皇子なく皇女のみ」「皇弟に男子あり」「上皇が存命」という天皇家の今の状況は、中世だったらかなり紛糾したんじゃないかと思う。秋篠宮家を担いで挙兵したり、上皇に院宣を出させようと工作したりする輩が現れてもおかしくない。皇室典範がある時代でよかったね…