だ。と新鮮だった。本書で若者が平成に煩悶していたことが自分にとっては令和になってからだった。ふと、旧東工大のリベラルアーツ学部をネットで調べてみる。内部に強烈なアンチがいましたねぇ。東工大にリベラルが設置した経緯、本当に東工大に必要なのか管轄の問題が疑問視されている。科学と宗教。その対立に長い歴史を感じる。上田さんの論考を見る限り、高学歴理系エリート予備軍にこそ人文科学の教養を身に着け科学を正しく使う素養を身に着けてほしいという切実な願いが込められている。たしかに政治の右翼左翼、ジャーナリスト、新興宗教、
ほんわかした実体のない社会学は新興宗教の教義のそれに似てうさん臭さは絶対ある。けど科学的用法でつかみにくい【雰囲気】を学術的に解明しようとする試みは何らかの形で取り組まなければならないとも思う。生きてて漠然とした満たされなさを感じている人間関係が希薄な陰キャさんには(あえて差別用語を使います)、なんらかのきっかけになるよいい。
りも自分の足でフランスの公文書を渉猟しようとしたことは評価できる。フランスの一級史料を閲覧することは独自の規則の中で困難だったことが研究されていない原因だったらしい。東京裁判研究の中で、パル判事の判決書が注目されがちだが、ベルナール判事の意見書は研究としてあまり触れられていない印象だ。パルやレーリンクよりも独立性のある態度だった。ドラマ東京裁判で、ベルナール判事は、自然法に立脚した判決を重視したり、日本の植民地政策は自信が植民地裁判所の検事また裁判官だったため、批判せず擁護した。学生時代、神学を諦め、
法学に進んだり、自由フランス政府に所属したりエピソードが満載。実際にベルナール判事の息子にインタビューをしているので本書は唯一無二の性格がある。『再論東京裁判』でベルナール判事に関する章を読んだが、判決や文書から考察するという内容であり、実証的ではあった。しかしこのジャーナリストはオーラルヒストリーを駆使している。
大学によってはこれに、イノベーションをバンバン生み出す人材を生産することが加わる。こういう人たちが一定数いないと、国力は低下しちゃうからね。大学教育の受益者は君じゃない、お国なのだ。』 『サルとヒトが差を生み出したのは、人が文化を持っているからだ。しかしここでヤバいのは、自然と文化と言った二分法にはまることだ。で、前者は理科系の領分、後者をやるのが文系って考えてしまうとさらにヤバい。そうならないためには、鍵となる情報という概念だ。人は遺伝以外に世代間情報伝達のため遺伝以外のチャンネルを発達させてきた。』
復させての繰り返し。当時、民の間では、医学部を出た医者より刑吏が施す治療の方が頼りにされていたという。当時の医学では、解剖が宗教的なタブーであり外科手術はすすんでいなかった。刑吏は拷問や処刑を通じて人体の事を知り尽くしていたため、骨折などの治療は適任だった。最後にフランツシュミットが遺した刑吏日記。これを読んでみたい。本書はドイツをフィールドとしているが都市国家が濫立しているご時世で刑吏の扱われ方程度の差があった。なかでもシュミッツは好待遇であったという。退職の年齢になったとき、王に賤民としての地位から普
通身分にしてくれと懇願したら推薦状まで書いてもらい夢はかなった。彼は人情味ある性格で、拷問する時も、苦痛を和らげるために慰みの冗談を言い、処刑の行列に連なった囚人におどけた冗談を言って気を紛らせた。まさに最初に感じたイメージ像と違う事例もあった。晩年は外科医として一生を終えたので教養もあった。
ヒンドゥー教にも派閥があるが熾烈な差別意識はない。大きく分けて一元論、二元論、多元論とある。授業のリアぺで世界は多元論で構築されているヴァイシェーシカ派の立場をとってごまかしたが、現代の潮流としては一元論もしくわ不二一元論が大きいと感じた。普遍、アートマン、ブラフマン、霊魂、有の思想、実在、認識。ふえぇ・・・頭いっぱいだよぉ・・・
導きは哲学でした。ヨーロッパ中世では自殺した遺体を損壊して量刑ということがあったが。自殺者に第三者が関与するのは幇助、教唆、承諾殺人やら嘱託殺人やら明文化されている。その他コンスピラシー、背任、緊急避難、偽造と詐欺、暴行、強盗、責任能力など目を通した。
うかな…歴史学の発展はそもそも実証的に史料を読み解いていき専門的な訓練(つまらない苦行)が施される。「司馬遼太郎ぶっ◯す」とまで管巻いてるほどポップなストーリーフィクションを毛嫌いする歴史学者がほとんどである。ただ、東京裁判の舞台では判事が11カ国から選出され、長期化し判事団の対立が激化した。フィクションを凌駕する展開になっていたのが事実であり、なにもかもフィクションを見て知的好奇心を満たすため学問領域に足を踏み入れる史学科劣等生のワシがハマらないわけない。ドラマで問題点を抽出し歴史考証者の著者を漁るのは
なによりもインドとイギリスの支配関係を調べるうえで、『インド人がイギリスの支配を拒絶しインド人のためのナショナリズムを高揚させている』という表象構図を前提としてはいけない。インド人というのが主語が強い。既存のインド社会に嫌悪感を示すインド女性や、ヒンドゥー教とイスラム教徒の対立、エリート知識人が複雑に合わさって【イギリス対インド】という単純な対立でもない。(教科書的おおざっぱなくくりなら良し)
大学生文学部史学科。ひとさまに見せる文章では書いてません。こころに浮かんだことを発露してます。
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