本書の白眉は、シェイクスピアが所属した劇団・劇場のあり方についての叙述。そこは文芸的共同体というだけでなく、メンバーの共同出資によって成り立つ経営共同体でもあり、劇の芸術的成果のみならず、その自律的な運営形態の点でも同時代の他の劇団とは一線を画していた。それは得難い理想的な劇団像であり、こうした環境で物心両面で役者達と強い連帯感を育めたことが彼の創作にもたらした好影響は計り知れないことを、自身も劇場人である著者は熱い筆致で伝えてくる。巨匠の実像に近づけたとともに、こちらの胸も熱くなった。
宗教的にも国家的にもあらゆる党派的な活動には与せず、闘争の危機の接近を察するたび移住を繰り返したエラスムスは、同時代の人々からはいずれの党派を支持するのか立場を明確にしないことを糾弾され、後世の歴史家からは「逃避的人生」、「臆病者」と評されもした。しかし、終わりの見えない争いの時代にあっても国家や宗派の境界を越えた「世界市民」であろうとし、理性的な言葉(彼は「共通言語」としてのラテン語に終始情熱を傾けていた)による繋がりをあくまで求め続けたところに、彼の確固たる「闘い」があった。
デジタルメディアの浸透によって、「近代の知」を伝えるメディアだった学校教育のあり方も変わらざるを得ない状況にあるという。その通りと思うが、「知の身体化」が模範解答かは疑問が残る。かつての四書五経は揺るがぬ普遍的価値を持っており、その知の身体化こそが、世界に向け開かれつつ揺るぎ無い自己を形成すると考えられた。しかし現代でそのような身体化に応えうる「知」とは何か?そこが曖昧だと毒をもって毒を制す、に陥りかねない。知の身体化を乱雑な知への共感の誘惑で溢れるデジタル社会の処方箋とするには、まだ課題が多そうだ。
お互いに異文化・異教徒(改宗者)への認識、社会的扱いは決して穏当で無かったのは確かだが、飢饉やペスト等で強い社会不安が生じた時期を除けば、全面衝突は稀だったという。征服地の異教徒への信教の自由や自治権の承認の慣例は、寛容の産物ではなく肉体的接触の抑制が目的というのが著者の指摘だが、地域差はあれど、生活空間を接する信徒共同体間の経済的、文化的交流は保たれていた。「レコンキスタ」は、中世の実態よりも、異質な人々に対して隔離や追放といった手段をとるようになった近世以降の態度変化を反映した言葉であるのが分かる。
見えてくるのは、「虎の尾」説の真偽とは別に、米国の「虎の尾」を警戒する日本の政治家の習性。真相究明を掲げた三木政権の裏で事態のもみ消しを米国側に要請していた中曽根と、彼の政権時の対米前傾姿勢が否応にも重なる。ロッキード事件の「秘密」から日米が受けるダメージには明確に非対称性があった。露見時に自国民に向けて正当化困難な秘密を作ることは、それを共有する相手に「弱み」を握らせることになる。著者は、日本の政治家の、米国への畏怖を自作したに等しい迂闊さを特に問題視する。それが今日克服されているか甚だ怪しいからだ。
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見えてくるのは、「虎の尾」説の真偽とは別に、米国の「虎の尾」を警戒する日本の政治家の習性。真相究明を掲げた三木政権の裏で事態のもみ消しを米国側に要請していた中曽根と、彼の政権時の対米前傾姿勢が否応にも重なる。ロッキード事件の「秘密」から日米が受けるダメージには明確に非対称性があった。露見時に自国民に向けて正当化困難な秘密を作ることは、それを共有する相手に「弱み」を握らせることになる。著者は、日本の政治家の、米国への畏怖を自作したに等しい迂闊さを特に問題視する。それが今日克服されているか甚だ怪しいからだ。