【本作成】エマソン論文集(下) 岩波文庫 赤 >> https://bookmeter.com/books/22547462
試しに登録してみました。ドイツ観念論、ことにカント哲学の精神をアメリカに移入し、超越主義を提唱したアメリカの哲学・詩人のエマソンのエセー集。この下巻は、「大霊」「円」「詩人」「自然」「運命」に講演記録「超越論者」「逃亡奴隷法」「ソーロウ」の三編を収録。初期のロマンティックな姿勢を現実主義的に修正してゆく思想的軌跡を明らかに。著者のラルフ・ウォルドー・エマソン(1803~82)は19世紀の最大の詩人・哲学の大作がこのエセーである。最初から「大霊」で神秘主義で世界霊と個人霊の対比で、詩人、自然、運命等語る。
「エネアデス」要約では。美の説明から次に魂の不死を説明。人間の真の自己は魂。魂は肉体へと下降した。浄化されたとき姿を現わす。一なる者は全てであり、その力が英知を生み、同様に魂を生んだ。一者の最上位が善なるイデア。善なる者に到達できるのは、愛知者、音楽愛好家、恋愛家である。音楽愛好家は英知的な調和に、恋愛家は魂の美へ、さらに英知にまで、また愛知者は問答法まで導かれ、善や永遠と違うものと区別を教示し、一者の認識に導く。それが英知の賜物で哲学の貴重な部門。死後、魂は人間、ダイモンに。ダイモンとは守護霊のこと。
死後人間は英知界、イディア界に住む。その後、ダイモンにもなる。ダイモンの役割も多々ある。エロスもダイモンの一つ。イディア界と人間の仲介者。人間を見守る守護霊の働きもある。聖書では天使のこと。また聖霊または神の御使いとして語られ。また死後動物になるとは仏教の六道輪廻みたいだな。また一者は世界霊魂や個別霊魂を生み出している。人間は個別霊魂だが、世界霊魂とのつながりもあるらしい。色々な一者からの流出から世界は造られているが、一者のはからいによって存在。イディア界が英知界とは仏教的。人間は神と動物の中間の存在。
更に不思議なことが語られる。物体の運動がやんだり中断したりすることはあっても、時が止まることはない。新プラトン主義のプロティノスも同じようなことを言う(「エネアデス」三巻七編)。太陽もろくろも回転運動だが、時間でない。時間は一種の延長である。動詞を考えると延長は「むかう」や「分散」を示す。だから延長は分散した方向に向かうの意。アウグスティヌスは延長を時間に適用する。1.時間とは、過去、現在、未来の三つの方向に分散してのびている心である。2.心が永遠を忘れて、時間的なもののうちに自己を分散させている状態。
第十二巻の創世記の解釈は不思議な感じ。天の天が出て来るのでゆっくりして読む。主よ、あの「天の天」とはあなたのものですか。この天と地の創造(三日目)は我々の可視的な地と海の上にある。その前の日(二日目)に造られた天と地の天とは、その天の天は、やはり「地」に属し無形質量から造られた。その天の天地に住むのは天使である。天使も被造物である以上、完全に不変でなく、その知性と意志は可変的だが、神の直感と愛に固着し他のものに心を動かされぬので、神との関係において一種の永遠性を現じる(創世記注解)。天使が住むのは霊界。
哲学で知識とは何か。最初から考え込むような話だ。知識と言っても最初は感覚的なことがらだ。感覚だけでなく思考はどうなんだろう。あるはある、ないはないとはどういうことか。そこで思いなしの問題となる。虚偽の思いなしはあるのか。真の思いなしとは。知識にしても、正しい知識とは何か。知識と無知とはどんな関係か。知識を所有すると言っても保持するとは限らない。保持するとはどんなことか。また数字や文字の表現の問題もある。知識は最終的には文字表現になる。いわゆるロゴスである。そのロゴスの判定は。この本は知識の問題提起のみ。
記憶論は不思議。プルーストの「失られた記憶を求めて」も記憶の中でかっての恋人のアルベンチーヌの回想を色々と語る。アウグスティヌスも記憶が感覚なのか思出なのか記憶なのか事実だったか、思い込みなのか多様に内面の知識により考察。我々は経験内容のみならず、経験した行為も記憶する。記憶において過去、現在、未来を貫く「私」の持続が保たれる。その記憶には、以降に、感情の記憶、忘却の記憶、希望の記憶が語られる。記憶は感情も含むが、いかに喜ばしいことを想起こすのか。忘却の記憶も現存するのか。至福のかすかな記憶もあるのか。
この作品は映画化されたようです。見た人の感想もある。解説で北方謙三さんが人間と犬の触れ会いについて、不思議な思い入れるがあると言う。犬の寿命は短いが、その記憶が象徴として残ると言う。papicoさんも亡くなった愛犬が心に残ったそうですが、この本でも新しい愛犬に亡き犬の名前をつけるとか。「男と犬」「泥棒と犬」「夫婦と犬」「少女と犬」まで読んで、最後は「少年と犬」になる。北方謙三さんも「少女と犬」から後半にかけて感動を語る。車イスの少女が自殺の名所の東尋坊で、ある犬に出会う。その愛犬からリハビリに頑張った。
第八巻になると彼が三十二歳の時、いよいよ回心に悩まされ、シンプリキアヌスに相談。シンプリキアヌスはアンブロシウスの師匠であり、彼にウィクトリヌスの回心の様子を物語る。ウィクトリヌスもまた有名で地位のある修辞学者だったが、キケロの著作やアリストテレスを研究し、その後聖書の研究に没頭した。アリウス派に反対しパウロの注解を残した。その中で回心し教会でキリスト教徒を宣言し、入信した。アウグスティヌスは大きく動かされた。憐れみ深い神、神や天使は罪人の回心をより多く喜ぶ。またその影響力からより高貴な人の回心を喜ぶ。
彼はポンティキアヌスとの交友からエジプトの修道者アントニウスの生涯を知った。彼は霊と肉の争いに疲れた。彼は肉の重荷に抑えられていた。だが軽快な肩に翼を持ったら探究の心身の消耗も楽なるだろうに。詩編注解では、「神と隣人を愛する者にはその魂には翼が生える。自由な翼で、聖なる愛によって主の御許に飛んでゆく」。また彼は意志の分裂にも悩む。心身は意志で容易に制御できるのに、精神の制御はなかなか難しい。罪の罰は乗り越えるのは難しいのか。彼は霊感の声、「とれ、よめ、とれ、よめ」を聞いた。そのお告げにより聖書を読み感動。
アウグスティヌス(354~430)北アフリカのタガステ生まれ。後にカルタゴやミラノで活躍。初期キリスト教最大のラテン教父で哲学者として有名。多情多感な生活を送り、文学・修辞学を学んだが、九年間マニ教を信奉。それから内面の悩みを告白。最初はキケロの「ホルテンシウス」からストア派を学び、次第に新プラトン派のプロティヌスに傾倒。ローマ末期であるからカトリックはそれほど優勢ではなく、修辞学で出世を望む。マニ教はキリスト教の一派のようでもあり、ゾロカスター教や仏教にも近い。彼はマニ教の旧約聖書批判に我慢できない。
Ⅰ巻も終盤まで来た。訳者であり哲学者である山田晶さんでなければ、読み進なかったかな。アウグスティヌスがマニ教から離れるのはアンブロシウスに出会った頃である。母モニカもミラノに到着し、母と息子は共にアンブロシウスの説教に深く動かれる。二人はマニ教徒が虚偽の非難をしていたカトリック教の真理を、ますますよく理解するようになった。母モニカは聖者たちを記念して建てられた聖堂に、供物と粥とパンと葡萄酒をたずさえてゆき、敬虔に参詣した、。ローマ世界では先祖の霊をなぐさめる為飲食する祭日だが、後に殉教者の記念日となる。
魂の不死について、魂の三分説のたとえが見事。魂の似姿を翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが一体になって働く。第一に馭者がとるのは二頭の馬である。一頭の馬の方は、資質も血筋も美しい善い馬だが、もう一方は、資質も血筋もそれと正反対の性格であり、馭者の仕事は困難を極める。「国家」にも述べられるが、「知的部分」は精神の機能が馭者によって表され、怒かりや覇気に代表される「激情的部分」が良い馬の方に、食欲や性欲のような「欲望的部分」が悪い方の馬に当たる。魂全体として翼のそろった魂は天空高く飛翔する。
ソクラテスはシミアスとケベスに説明する。神々の種族へは、哲学を学んで、全く浄らかな様で世を去った者以外は入ることを許されない。学を愛する者のみがそれを許される。真の哲学者たちは、すべての肉体的欲望から離れ、かたく身を守り、それらの欲望のおもむくままにならない。財を愛する多くの人々のように財産をなくして貧乏を恐れるからでない。権力や名誉を愛する人々のように悪しき生活に伴う不名誉や不評判を恐れる故に、それから離れているのでない。魂こそ、肉体を導き、それに君臨するものであり、調和よりも遥かに神的な何かである。
オルペウス教えやピュタゴラス派の言い伝えでは、輪廻転生が語られるが、各人が死ぬと、生きているうちからその人の運命を司どっていた各々のダイモーンが、道案内してあるところに連れて行くが、そこに集まった人々は裁判を受けて、あの世で暮らすことになる。それからその人は案内人と共に冥界ハーデスへ行く。その人は冥界で定められた運命を受け、必要な期間だけ留まる。その後別の案内人が再びこの世に連れ戻す。長い数多くの周期を繰り返した後で。節度のある賢明な魂は進んで導きに従い、既知の魂に出会う。肉体に執着する魂は冥界で苦しむ。
エロスの出生はそれほど神聖なわけでない。アフロディテが生まれたとき、神々は祝宴を催した。その中にメティス(巧知の神)の子ポロス(策術の神)もいた。そこにベニヤ(窮乏)が乞食をしていたが、神酒に酔い眠っていたが、困窮のあまりボロスにより子エロスをもうけた。そこでエロスはアフロディテの随伴となりその僕となる。エロスは生来美を愛した。アフロディテが美しかったから。エロスの実態は窮乏と術策の中にあり、彼は愛知者(フィロソシオス)でもあり、魔術師である。エロスは知恵と無知の中間にいる。美に溺れるも愛知者でもある。
肉体愛は最下層で内部は多くの段階あり。愛の正しき道を辿ろうとする者は、若者の時より美しい肉体の追求から始まる。彼は或る一人の美しい人に対して熾烈なるエロースを抱き、その肉体を領有せんと恋々たる愛欲の想いに焦がれる。だが彼を誘導する達識の人あり、その良き指導を得ると、彼は自分が恋慕している個別的肉体のみが美しいのではなく、他の多くにも美しい肉体が存在することに気づき、全ての個々の肉体のみが美しいのでなく、他の美しい肉体も認知する。個別の肉体美への情欲を浅ましいと超克し一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ。
第一階梯を終えた愛の修道者は、指導者の誘いにより更に一歩進め、あらゆる肉体美を包摂する普遍的肉体美そのものより、精神美が遥かに尊く価値高いことを自覚するとき、彼は第二階梯に入る。この段階に入るや、彼の目には肉体美は第二義的なものでしかなく、精神さえ立派なら、肉体はたとえ優美さを欠くとしても十分満足する。精神美に感化されると、更に肉体とは無関係な一般の社会事業や法律の如きものにも美の存在することに気づくようになる。かくして第二階梯を終えると愛の誘導者は彼の精神を諸々の認識の方向に導く。これが第三段階である。
二巻のギュゲスの指輪の話。欲望と不正の問題が提示される。ギュゲスはリュディア王に仕える羊飼い。地震で大地の一部が裂けたので彼は穴の中に入ると、中が空洞の青銅の馬があるので覗くと、死体があり指に黄金の指輪があった。彼はその指輪を抜き自分の指にはめて集会にでた。ふと指輪の玉受けを自分の方に、手の内側に回してみた。すると彼の姿は周りの人々に見えなくなった。また玉受けを外側に回してみると、こんどは彼の姿が回りに見るるようになる。その指輪の力により、彼は王のもとへ行き、王妃と通じたのち妃と共謀し王を殺し王権を得た。
これなどは欲望を節制できない人間の弱さを代表している。支配者の欲望を節制することは実に重要である。ソクラテスは四徳に敬虔を一つ追加している。これも重要。ここにソクラテスをイエスと仏陀と並列して三大聖人とする意味も分かる。またソクラデスはダイモーンの働きを強調する。神と人間の仲介者として表現している。人間に神の言葉を伝え、人間を導く。キリスト教では天使や聖霊であり、仏教ではまあ菩薩のことかな。また徳の説明は東洋的であり、孔子や老子にも表現が似ており、日本人に多大な影響を与えている。エマソンも深く敬愛する。
その囚人が暗闇しか見えないのに、火を見ると目が眩む。だが慣れると火の明かりを十分に観察できるようになる。だがその囚人が洞窟の外の太陽の光には目が眩み洞窟に戻ろうとするだろう。だが囚人が忍耐強いく、目が太陽の光に慣れるまで見つめると、やがて太陽の光にも慣れて、外の風景も十分に見ることが出来る。さてその囚人を火に近づけたり、洞窟の外に出て、あえて太陽を見つめるように、導くのは何者だろうか?「神秘哲学」の著者井筒俊彦は神秘体験ではないかと推定する。それを導くのは彼のダイモーンではないか。つまり導きの天使のこと。
評判が高いのは死後の世界を臨死体験した戦士エルの物語が最後に語られる。エルは戦争で最後を遂げた。十日のち、彼の死体は腐敗しなかった。12日目に野辺送りの火の薪に横たえた時、生き返る。そこで彼はあの世で見てきた様々なことを語った。それは正しい人と不正の人の行き先だった。彼の魂は身体を離れた後、道を進み、やがて牧場のような霊妙な不思議な場所に到着した。その大地には天の穴と地の穴が二つづつあり、天と地の間には裁判官たちが座っていた。彼らはやって来た者に判決を下し正しい人には印をつけて天の上の道に行くよう命じた。
エマソンは「生き方の哲学」の本流。彼は「代表的人物」で偉人の六人を選び、その意味を考察。プラトン、スウェーデンボルグ、モンテーニュ、シェイクスピア、ナポレオン、ゲーデ。それぞれに「哲学に生きる人」「神秘に生きる人」「懐疑に生きる人」「詩歌に生きる人」「世俗に生きる人」「文学に生きる人」。彼は東洋哲学に詳しい。「ウパニシャッド」や「バガヴァッド・ギーター」を理解。東洋思想の素地もあった。「超越した神」でなく、「内なる神」を抱いた。プラトンやプロティノス西洋神秘哲学から出発し、インド哲学の「梵我一如」に至る。
創造主ブラフマンと個人のアートマンは同一のことを梵我一如と言う。エマソンはプラトンに、東洋哲学と西洋哲学の接点を見出した。同じくその接点を見出したのは「神秘哲学」の井筒俊彦。彼はめくるめく光を描いた「華厳経」の世界観とプロティノスの世界観は極めて似ているとした。またエマソンは仏教や論語、老子の思想にも近い。「陰陽二元論」は、彼の「償いの法則」ときわめて近い。エマソンの東洋的発想は明治の日本人に親近感があり、愛読された。内村鑑三や鈴木大拙も感化された。「自己信頼」は世界的に読まれた。ニーチェも愛読した。
宵待草さんありがとうございます。どこまで真意に迫れるか分かりませんが一応コメントしてみます。「自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての信じること」「心の中で確信していることがあるなら、声に出して語るが良い。そうすれば、それは普遍的な意味を持つようになるだろう」「偉大な人とは、たとえ群衆の中にあっても、一人のときと同じ独立心を保ち、にこやかな態度で人と接することができる人である」。人は己の内面に問いかけよ。天は自ら助けるものを助ける。こう言ったことを古典から自然から説明している。
最初の言葉は、「汝、自らの他に求むることなかれ」。人は、自らの星である。正直で完全な人間をつくりうる魂は、すべての光、すべての力、すべての運命を支配する。ことが起きるのに早すぎることはなく、遅すぎることもない。われらの行為は、良しも悪しきも、神の御使いであり、われらのかたわらを黙して歩む、運命の影である―ボーモント/フレッチャー「正直者の運命」エピローグ。確かに運命を語るのに適切なり。内なる声が聞こえて来るのは、決して珍しいことでない。モーゼ、プラトン、ミルトンの最大の功績は自分の意見を語ったことにある。
ソローが十四歳年上のラルフ・エマソンと個人的にいつ相知るようになったかは定かでない。エマソンは1834年に父祖の地であるコンコードに居を定め、36年には超越主義の綱領とも言える「自然」を出版し、超越クラブを発足させ、その周囲に文学者や知識人を多く集めるようになった。人間の徳性・言語・芸術・学問等の進歩の原動力は自然にあるとし、自然の偉大さと神秘性を詩的な文体で雄弁に語ったのがこの書物である。この書物はソローの人格・思想の形成に多大な感化を及ぼした。ソローは超越クラブの一員となる。上巻最初は「経済」である。
また漫画本もあり評判が良いです。お子さんに見せるのも良い絵本です。大人でもまた感動するとか。「経済」で森の二年間の生活の記録です。副題はウォールデンで、ウォールデン湖畔の小屋での生活です。生活必需品の衣食住にプラスして燃料のシンプルな生活です。今日のアウトドアライフの先駆けです。当時から人々は金の蓄積と地位や名誉を追い求めて都会であくせく働き旅行も金がかかり、人々は徒労の果てに疲れていました。ソローは自然の恵みと癒しの空間の森の花や樹木、小川や湖での安らぎを書きました。また古典にも造詣が深い詩人でした。
高校時代より、読書が始まりました。最初に感動したのヘルマン・ヘッセの作品でした。最初に読んだのは、「郷愁」でした。最初は文学、しだいに歴史、考古学、プラトンの作品とか、スウェデンボルグとか、ギリシャ神話、インド神話、ジュセフ・キァンベルの作品、ユング心理学の作品、ルドルフ・シュタイナーの作品、聖書、バガヴァット・ギーターとか、UFOの小説・実録、などなど様々です。頭を柔軟にして、グノーシスとかナグハマディ文書とか最近の新しい発見とか、古代の見解と最新の見解を比較・検討してみたいのです。また最近の潮流のレイチェル・カーソンから始まったエコロジー運動、水や森林や土壌や微生物学の発展も興味深いものです。七十歳を過ぎて、アリストテレスやカントを知り、その博学さに感銘を受けた。ともに「形而上学」に大変に驚かされました。それまでプラトンにも飽き気味でした。ゲーテもとても好きになりました。こんな近況です。
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この作品は映画化されたようです。見た人の感想もある。解説で北方謙三さんが人間と犬の触れ会いについて、不思議な思い入れるがあると言う。犬の寿命は短いが、その記憶が象徴として残ると言う。papicoさんも亡くなった愛犬が心に残ったそうですが、この本でも新しい愛犬に亡き犬の名前をつけるとか。「男と犬」「泥棒と犬」「夫婦と犬」「少女と犬」まで読んで、最後は「少年と犬」になる。北方謙三さんも「少女と犬」から後半にかけて感動を語る。車イスの少女が自殺の名所の東尋坊で、ある犬に出会う。その愛犬からリハビリに頑張った。