冬嗣の漢詩の「一県千家花ならぬはなし 」との句は、穏やかな世の到来の象徴するものに思えます。やがて生まれる、中宮定子や彰子の文化サロンは、その最も華やかな花なのでしょう。その花と平穏が、民衆の津々浦々にまで拡がることを望みたいものです。
主役の嵯峨天皇・藤原冬嗣のほか、脇役陣も桓武・平城帝に藤原薬子、坂上田村麻呂に、遣唐大使の藤原葛野麻呂、さらには最澄・空海・・・など個性派の大者ぞろいで、その言動や心情が生き生きと活写されており、大河ドラマを観るかのような興趣と興奮を感じましたよ。
道長の四男という、これまたマニアックなポイントを突いた作品があるのですね。永井路子さんは、私も好きな小説家ですが、これはノーマークでした。読みたい本に入れておきます。ご紹介ありがとうございます。
人間の本性に切り込むような、以下の台詞も印象に刻まれました。 ✰人間にとって、いちばん辛いのは・・自分ひとりが辛いめにあわされていると感じたときだ。みんなが不幸ならまだ救いがある。✰一々の官位の昇進よりも、対立する相手との比較感に、人間はいかに悩まされるか ✰帝のきさきになるなんて、幸運の絶頂だ、贅沢言うな、と世の人は思うかもしれないが、そういうもんじゃないんだ。✰幸福に馴れきっている人間は不幸には脆い。✰人間が一人死ぬ。泣いて悲しむのはひと握りの肉親だけ。
キルケゴール先生によると、世間的には一見幸せであっても、それが長いものに巻かれる的な本来の自分を捨てる処世によるんやったら、「絶望」に当たるとのことや。そな、考え方もあるんやな。
後半は、人はなぜ「信仰」せんのか、いろいろ考察されておられた。例えば、 「自分自身を偉く見せるため、自分を天才にみせるため、信仰に背を向ける」、或いは、「神の恩恵が大きすぎて信仰に戸惑う」、そんな輩も多いらしい。さすが大哲学者、鋭い人間観察どすなあ。
一方、道長の最晩年は、病苦にさいなまれ断末魔の苦痛を味わったらしい。自分の権力増強に汲々とし、敦康親王や東宮敦明らを蹴落としたりしてきたことの祟りなのか?怖いですね!
本は「宝の山」。読書は、「宝の山」を宝を探しながら登ること。一冊一冊、どんな宝が見つけられるかを楽しみに、ユックリと登っています。頂上(読了)に辿り着いた満足感も、いいものですね。
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道長の四男という、これまたマニアックなポイントを突いた作品があるのですね。永井路子さんは、私も好きな小説家ですが、これはノーマークでした。読みたい本に入れておきます。ご紹介ありがとうございます。
人間の本性に切り込むような、以下の台詞も印象に刻まれました。 ✰人間にとって、いちばん辛いのは・・自分ひとりが辛いめにあわされていると感じたときだ。みんなが不幸ならまだ救いがある。✰一々の官位の昇進よりも、対立する相手との比較感に、人間はいかに悩まされるか ✰帝のきさきになるなんて、幸運の絶頂だ、贅沢言うな、と世の人は思うかもしれないが、そういうもんじゃないんだ。✰幸福に馴れきっている人間は不幸には脆い。✰人間が一人死ぬ。泣いて悲しむのはひと握りの肉親だけ。