アンリ4世の即位は大変だった。ユグノー戦争が始まった最中での即位だ。王家は和平を推進するが、取り巻きの為にカトリック寄りだ。その最中にユグノーが王になる。力で王位をもぎ取ると、カトリックへの改宗を宣言する。そしてナントの勅令で和平を目指す。シュリー公爵のもとで疲弊した国の再生を目指した。ルイ13世は幼帝で宰相リシュリューが国家理性の元で国を復活させる。州・司法のアンアタンダンの制度で私物化された微税権・裁判権を取り戻し、中央集権化を図った。後任はマザランだ。ルイ14世も幼帝だ。マザランに帝王学を学んだ。
コルベールの重商主義だ。戦争に栄光を求めた。絶対王政となる。ヴェルサイユの文化発信が栄光を高めた。ルイ15世も幼帝。オーストリア承継戦争の後にポンパドール夫人の時代となる。これからはオーストリアとの同盟だ。ルイ16世は19歳で即位。アメリカ独立戦争に金を使い、課税の為の全国三部会の招集でフランス革命がおこる。ヴァレンヌ事件で共和政樹立。ナポレオン帝政後の王政復古は余りに復古主義過ぎた。7月王政は進歩的だが、それでも人民の意図するものとはならない。1848年の第2共和政以降にフランスでは王政は復活しない。
1代フィリップ6世の時には戦争に負ける。2代ジャン2世は負けたばかりか捕虜になる。一時保釈されたがロンドンで客死した。王が不在の時から活躍したのが3代シャルル5世だ。年貢収入の他に公益の為の税金を創り出した。それで常備軍を創った。フランス絶対王政の始まりだ。サリカ法典で王位を男系に限定した。4代シャルル6世は精神を病み、28年の休戦協定中は内紛だった。トロワ条約で王位をイギリス王にしてしまう。5代シャルル7世の時にヨランド・ダラゴンの力でアラスの和で内紛は終わる。ジャンヌ・ダルクも出てきてフランスが勝つ。
6代ルイ11世は暴君だと言われるが、ブルゴーニュを手に入れた。7代シャルル8世はブルターニュを手に入れ、ナポリまで遠征だ。8代ルイ12世の時から官職売買が始まる。9代フランソワ1世は派手男。皇帝選挙出る。宗教改革ではプラカード事件で異端撲滅となる。10代アンリ2世は合理的に思考した。ノストラダムスの予言通り死んだ。アンリ2世の子のフ11代ランソワ2世、12代シャルル9世、13代アンリ3世に子が無く、ヴァロア朝は断絶する。だがその子達の母カトリーヌ・ドゥ・メディシスは宗教戦争の中で子の為に大活躍したのだ。
クロヴィスに遡る故事で聖別されて王になる。カペー朝の引き継いだのは無政府状態の国家だ。アンジュー伯やブロワ伯やアキテーヌ公などの領主貴族がおり、カペー朝はそれに比べ脆弱な君主だった。だが5代ルイ6世が領主貴族を整理統合し、王領の支配を安定させて確固たる権力基盤を創出した。アキテーヌ公からも王と認められた。6代ルイ7世も活躍したが、7代フィリップ2世がカペー朝で一番活躍した。王領を3倍にした。母からカロリング王家の血を引き継いだ。地方官僚(バイイ代官・セネシャル代官)・会計監査院・高等法院を設けて内政充実。
8代ルイ8世は母から大帝シャルルマーニュの血を引き継ぐ。南フランスにまで直轄領を得た。9代ルイ9世は列聖された王だ。実力1本勝負のフランス王家に良心を注入することで道徳的・文化的にも一流と周囲の意識を改めさせたのだ。他国から調停役を頻繁に頼まれるのだ。10代フィリップ3世は色々な方法で領地を広げた。アヴィニヨンを寄進した。11代フィリップ4世は封建軍を傭兵隊に変えた。その為常に出費が増大して金を必要としていた。そしてテンプル騎士団事件をおこす。その祟りか、12~15代の王位は短期間で交替し、断絶する。
戦争は包囲戦ばかりで会戦は少ない。半分以上の期間は休戦や平和条約の話し合いだ。兵站がないので軍の徴発は慣習法上認められていた。軍は傭兵からなり、傭兵は休戦時に略奪者に変わる。初め仏軍は負けてばかり。ジャン2世は捕虜となる。身代わりの人質の息子が逃げると、再度渡英して客死した。百年戦争中の仏は貴族の大反乱がある。自分の領地にとって英仏のどちらについた方が得かで判断した。ジャン2世の捕虜中やその後の平和条約を巡り乱れる。息子のシャルル5世は賢明王と呼ばれ、税金や常備軍を作る。次のシャルル6世は精神疾患を患う。
パリ休戦協定では英は弱腰のリチャード2世を廃位してランカスター朝が始まる。仏では6世の叔父と弟が争い、後にブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦へ。ブル派はトロワ平和条約で英王に仏王位承継権を与える。1429年のオルレアンの攻防でジャンヌ・ダルクが活躍し流れが変わる。アラス条約で内戦が終結。53年のボルドー陥落で百年戦争は終了。55年に英では王位を争う薔薇戦争が始まる。だが著者は92年のエタープル平和条約迄が百年戦争の終わりとする。中世の終わりだ。王の戦争は国家の戦争と看做された。人々の国家観が変化した。
プランタジネット家との抗争だ。王政の強化で近代国家になる。大西洋経済と主権国家システムだ。宗教戦争の時にブルボン朝になる。売官制でブルジョア層と王政が結びつく。太陽王のルイ14世の時から財政が危機だ。エリート文化と民衆文化の間に溝が生まれる。貴族への課税で王政の統合力が解体して革命が始まる。複合革命論としてアリストクラート・ブルジョア・都市民集・農民の4つの革命があったと。食糧暴動が全国三部会と重なった。そしてバスティーユだ。民衆の願望を実現したのがロベスピエール。革命はテルミドール反動で99年迄続いた。
1789年の革命、99年のクーデタ、1802年の第1帝政、1814年の王制復古、30年の7月王政、48年の第2共和政、52年の第2帝政、71年のパリ・コミューン、75年の第3共和政と忙しい。ここの政治的分析は優れている。共和主義は三極構造の中で変革の主体が局面打開の為に自由と平等の2原理統一を希求・模索する政治文化。第3共和政の時にドレフュス事件で急進派が共和主義の主流となる。ヴィシー政権の後に第4、第5の共和政だ。ドゴールはアメリカからの自立を求める。ゴーリスムシラクまで。EU後には排外主義。どうなる。
諸邦分立体制が出来る。23年間の大空位時代が生じた。地域主権国家が出来るが、ドイツでは不在の公領は伯領に分割されて出来ない。ただ東に拡大した。金印勅書で等族制・帝国議会など帝国改革が行われる。ハプスブルク王朝が続く。宗教改革がおきるが、皇帝はイタリア戦争で不在。騎士・農民戦争が封建制崩壊に反意でおこる。30年戦争の後のウェストファリア条約で伯の地が守られた。300も国がある。オーストリア・プロイセンが絶対王制となり力を付ける。前者はハンガリーを獲得。後者はオーストリア承継戦争やポーランド分割で大国になる。
フランス革命がおこる。ナポレオンにオーストリアが負けて神聖帝国は終わる。ドイツの中小国はライン連盟を結び、ナポレオンにより約40に纏まる。ナポレオンがロシアに負けてウィーン体制になる。その本質は均衡だ。国民国家の建設が始まる。統一の動きも。大ドイツ・小ドイツの考え。大国になったプロイセンのビスマルクに主導されて関税同盟を経てドイツ帝国が生まれた。ビスマルクはフランスを孤立させる。その後の指導者は逆にドイツを孤立させて第1次大戦へ。ナチスで負け、東西分裂。統一後のEUは神聖ローマ帝国の前例を参考にして発展。
母方のコンラディン家のフランケン公コンラート1世が国王として選出された。シュヴァーベン・バイエルンの大公は反コンラートとなるが、リウドルフィング家のザクセン大公ハインリヒは友好的中立を堅持してコンラートの信頼を得て国内で揺るぎない地位を固めた。918年にハインリヒを後任に指名して逝く。ハインリヒは東フランクの空中分解を防ぎ、西フランクともボン条約を結ぶ。大公と戦いもしたが赦し、シュヴァーベン・ロートリンゲンの聖職者叙任権は奪った。そして王国の相続を単一相続に変えた。936年にオットー1世が王国を世襲した。
相続出来なかった兄弟が大公と結びついて反乱を起こす。その度に兄弟を許す。だがその大公は許さない。そんなことが数回続くと、大公は親族か身内になり安定した。そして第1次イタリア遠征。前イタリア王の未亡人と再婚。もどると長男の反乱があったが許した。そしてレヒフェルトの戦いでハンガリーに大勝する。教皇からの要請で第2次イタリア遠征。この時教皇から戴冠する。このときイタリア人は東フランク人を呼ぶ言葉があり、それがドイツに繋がる。イタリアの地でよそ者がアイデンティティを掴んだと。彼は第3次イタリア遠征の後に亡くなる。
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