リルケの詩の現象学的構造 >> こういう研究もされていたとは! 驚きつつも嬉しくなった。つい最近『マルテの手記』を読み終えて感じたのは、フッサール現象学に似てるな……という漠然とした感覚だった。真実は言葉をもっては語れない。言葉にした瞬間、それはまったく正しく伝わらないからだ。しかし、言語というものはそもそも自然発生的なものなのだから、自然に湧き上がってくる言葉をなるべく加工しないで吐き出せたなら、そこには普遍的な自然が幾分かはふくまれ、その自然に隠れた真実や普遍性が誰かに伝わることはありえるのだろう。
イプシロンさん、丁寧な返信ありがとうございます。詩は中原中也を少し読んだくらいで、さらに外国となると仰るとおり、言語の壁に阻まれてなかなか手が出ません。音楽が好きなので、ワーグナーの歌劇をいつかは聴いてみたいと思っておりますが、ドイツ語を少しでも学ばないとほとんど理解できないと思います。リルケの『若き詩人への手紙』は是非読んでみたいですね。
朝乃湿原さん、リコメありがとうございます。まあ、あんまり神経質にならずにぶちあたってみるのがいいかと思います。ワグナーの歌劇は翻訳詩でも感情が十分伝わってくるので、まずは聞いてみるのが吉かと。タイトルによりますが、今はYouTubeで気軽に全編見ることもできますしね(『指輪』は長いので、しんどいですけどね:笑)。ちなみに、私の一推しは『さまよえるオランダ人』だったりします。
余談だが、本著訳出は1950(昭和25)年なので、固有名詞の音訳が現代とは異なるので、かなり読みにくいといえる。第二部はギリシャ神話の神々やニンフ、妖怪が沢山でてくるので、その辺りで苦労したくない向きは、池内紀(散文調・集英社)、柴田翔(韻文調・講談社)といった新しめの翻訳を選ぶといいだろう。また、ゲーテは本作はエンタメとして読んで欲しいと遺言したそうだ。道徳や真理を追求しながら読まなくては! と、自ら敷居を上げる読み方をしなくていいんだよ、と。
つまり、自他を愛したいなら、常不軽菩薩になるとか、身口意における非暴力主義者になるとか、しかないのであろう。「すべてのものは暴力におびえ、すべてのものは死を恐れる。己が身にひき比べて殺してはならぬ、殺されてはならぬ」を実践することが愛するということなのであろう。当然、著作の時代的に、同性愛やLGBTQ+に関する記述はないが、そうした方面に対する回答もあると言っていいだろう。そうした人に対して、勝手な印象を抱いてあれこれすんな。所詮、我々は何も知れないのだから、尊重するしか出来ないのだから、と。
多分、ゲーテも、学問は研究したいと思うものを対象化せざるを得ないと知っていたと思われるが、こういう思想はいささか極端だと言えよう。極言すれば、確かにゲーテの言う通り、人生は生命を体験しながら生命を探求することとは言えるが、それが出来る人は、天賦の才に恵まれた人であろうから。また、そこに至るにはある程度の知識を得てこれ以上知識を蓄積することに意味はないという、ファウストと同じ境地に立つ必要性もあると言えるだろう。ともあれ、第一部はいまだ命題がよく見えないので、グレートヘンが救われた理由も曖昧といえる。
解説によれば、彼女が救われた原因は、伝統的キリスト教解釈(キリスト贖罪論=彼女に罪の自覚があったこと)によるとあるが、それだとゲーテが一時期心酔したスピノザ的汎神論との関係がいまひとつよく理解できないのだ。したがって、これも解説にあるように「第一部を読んだ人は、第二部を読まなければいけない」という言は的を射たものといえるだろう。
同様に、オレンジ(「中身の腐ったオレンジ〔貞淑に見えても内実は婬猥〕のような嫁なんかいらない!」という科白がある)が、当時は高価な果物であった時代性も顧慮しておくと、一層楽しめることだろう。ちなみに、現在でもオレンジは恋人たちが愛を確かめるモチーフにされていて、4月14日はオレンジデーと呼ばれている。どんなに美味しそうなオレンジでも、皮を剥いて食べてみないとわからない。つまり表面だけでなく内面にも注目しることが大事だ、と。また、表面と内実の関係がひっくり返った態度をとる、ドグベリーとヴァージズを登場させ、
笑いのなかで、見物人に「表面と内実のこと」を意識させる秀逸さは、さすがはシェイクスピアだと唸ってしまった。2作とも、色々と批判のある作品だが、ネガティブな目線ではなく、ポジティブな教訓を引き出す解釈をすることをお勧めしたい。
さて、こういう解体新書のような感想をサリンジャーが見たらなんというだろうか? 多分、彼からしたら一番やめてほしい行為だろう。それは解っているのだが、あくまで参考という意味で書いたつもりだ。小説の解釈など、個々人それぞれでいいと私も思っているからだ。ということで(言い訳がましいが)これは私の個人的見解であり感想であることを断っておきたい。
余談の余談だが、「フラニー編」でレーンが食べる蛙はキリスト教的には「死・吝嗇(ストイシズム)」であり、民間信仰だと「魂(生と豪奢=スノビズム)」の暗喩であり、カタツムリは「忍耐力」であり、フラニーが食べたオリーブはキリスト教的あるいは古代ギリシャ的に「神聖・平和・美・長寿・栄光」、「ズーイ編」で塗りつぶされる「O」は輪廻の否定と肯定かなんかの暗喩であろう(もちろん、個人的な見解にすぎない)。
は永遠的である。そう思えれば、輪廻転生は何も恐ろしいことではないと確信できるのではないだろうか。リルケ曰く――「我々の全存在、我々の魂の飛翔と墜落、それらすべてのものが、我々をしてかかる使命に適せしめてゐるのであります。(それを措いては、我々には他のいかなる使命もありません)」。人類全体で思索され見出された真実や真理が、見えざる存在として一つの神をつくっている。つまり、これまで人類が積み重ねてきた全集合知が神の智慧であり、個々人が持つ顕在的集合知や集合的無意識が「神の家」であるのだ、と。
加納恭史さん、コメントありがとうございます。『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』は既読なので彼女のいう「自然への畏敬」は解る気はします。生命の現れ(痕跡であり、生命自体を捉えることは決してできない)=自然と捉えるなら、必然的に至る思想かとは思います。とはいえ、近代以降の人類は自然を生命として見るのでなく、人間にとって都合のいい物として利用してきたのではないかと。その点はキリスト教の影響が強いのかと。人間にとって都合のいい自然=Natureとするなら、真の自然=wildであり「畏怖」だと思うんですがね。
「いざ、生きめやも」と訳しただけのことはある。そうだ、われわれは生の入口に立ったとき、はじめて生がはじまるのだ。なかなか気づけないことだろうが。マルテの父が死んだあと、心臓に針を刺して死んだかどうか確認してくれと遺言した場面の奥深さを思うとき、言葉では言い尽くせない、生と死の曖昧さを感じたりもした。そんな簡単に生と死にくっきりした線など引けないのだ、と。阿呆な私は、それってエンバーミング(腐敗防止)? とか思ったりもしたのだが(笑)
キリスト教に対する解釈も白紙にして読まなければならなかったり、読解への敷居の高さがある。とはいえ、解らなくとも何となく読むことで感じる寂寥感とそこから脱却しようともがくマルテを感じてみようと思うなら、読んでみる価値はあるだろう。第二部にある「貴婦人と一角獣」のことが語られる場面、そして、母とレース編みについて語る部分は、それだけで十分美しいと思えるからだ。世界と自己を見つめる方法には、大きく分けて2つ(情緒的探求と理性的探求が)あると思うが、それは結局のところ、同じ道であると思えたのが何よりの収穫だった。
かつて芸術は世界(自然)と繋がっていた。古代ローマ時代の円形劇場の壁のうえにはつねに青空があった。しかし近代化は天井という人工物で自然を遮った。こうしたマルテの視点に感動するなら、芸術のなんたるかと、理性的(≒哲学的)生き方のなんたるかには、大きな相違はないとも思えたのである。
みんなで押したことによって、アクシズ落としは阻止されたのだから。で、あのシーンは受精卵に群がる精子の映像化でもあるわけだ。つまり、一人がニュータイプに目覚めるのではなく、人類全体の卵子にニュータイプへと覚醒する精子たちが受精されるとき、本当に人の革新は起こるという暗示なわけだ。でも、そんなことは起きない(ふつう受精される精子は一つだけ)。だから、富野氏とプラトンが、たった一人でも正しい思想や哲学を持つ人を増やしたいと考えた思いは理解できる気がするのだ。
プラトン「ふざけるな。たかが弁論術一つ、哲学で押し出してやる!」 とはいえ、プラトンも弁論術が全く役に立たないとも言っていない。使い方を弁えていれば利益をもたらすとは言っているが、プラトンからすればそれは「弁証術」という呼び名なるものだろう。
文明を築かせ、ある程度の普遍性をもった思想や、秩序をもつ倫理などを築かせる根源であると言っているんですがね。さらに言えば、同じでないものを常に同じに見ようとする志向性があるから、人間の理性は様々なことを成し遂げられたとも言っているのです。が、そうした同一性を確保するような志向性については、今はほとんど研究されていなかったりします。ただまあ、我々の理性にも限界があって、「なぜ?」と問うても「なぜなら」と答えられず、「どのようにして?」と問うなら、なんとか答えらしきものに到達できる面もあったりするわけです。
余談ですが「数を数える」という一見単純なことが、正確かつ厳密に出来るようになっていったのが、文明の進歩につながっていると気づくなら、時間空間的に「測量」するという人間の意識や理性が、いかに重要な働きをしているかは理解できるのではないかと。もっとも、測れない存在や認識、ひいては生命という問題になると、人間の理性がいかに役立たないかは、現在行われている戦争を見ても明らかなのではないかと。そう考えるなら、数えられないと思っているものを、どう測っていくかが人間の理性に課された課題ではないかと思えるわけです。
読書しながら、小説を書いたりしていました。
(現在は執筆凍結中です)
長短編で50作品を書きました。
拙作なので服用には十分の注意が必要です。
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基本、哲学馬鹿で自分なりの哲学を持っているので、『哲学的視点』に立ってものをいいます。
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さて、こういう解体新書のような感想をサリンジャーが見たらなんというだろうか? 多分、彼からしたら一番やめてほしい行為だろう。それは解っているのだが、あくまで参考という意味で書いたつもりだ。小説の解釈など、個々人それぞれでいいと私も思っているからだ。ということで(言い訳がましいが)これは私の個人的見解であり感想であることを断っておきたい。
余談の余談だが、「フラニー編」でレーンが食べる蛙はキリスト教的には「死・吝嗇(ストイシズム)」であり、民間信仰だと「魂(生と豪奢=スノビズム)」の暗喩であり、カタツムリは「忍耐力」であり、フラニーが食べたオリーブはキリスト教的あるいは古代ギリシャ的に「神聖・平和・美・長寿・栄光」、「ズーイ編」で塗りつぶされる「O」は輪廻の否定と肯定かなんかの暗喩であろう(もちろん、個人的な見解にすぎない)。