『実理』の序論でまず躓いている。「理性の実践的な使用において理性がかかわるのは、意志を規定とする根拠だけである」という説明は理解できる。しかし「意欲が問われるかぎり、理性は客観的な実在性を備えているから」との説明はいまいちよくわからない。意志は目的を持ち、目的は経験的なものであるから、客観的な実在性をもたないのではないかと思うのだが、この突然表れた「意欲」とは何なのだろう?この後に続く純粋実践理性の原理論を読んでから漸くわかるのだろうか。
ということですね。ところが悲しいかな、現代は短文文化が加速し、またSNSによる爆発的な情報量により、どんどん言葉の通じない人、ちゃんと説明しても理解できない人が増えてるんです。コロナ禍の影響もあって、小学生中学生もそういう子が増えてるそうです。でもってそういう人が増えた社会がどうなるかは、もはやここで言うまでもないですよね。ともあれ「とりあえず通読することを第一目標」はいいことだと思います😊 でも湿原さん、欲張りさんだからなぁ〜(笑)
イプシロンさん、どうやらパンドラの箱を開けてしまったみたいですね💦未だ解決していない問題だとは思いませんでした。ただ文意については理解が深まったので、これ以上深追いしないようにしておきます。欲張りを抑えて、通読いたします笑
誰にでも通用するような中小観念的な説き方になるゆえ、両者とも注意が必要ということかと。何でもかんでも相対性理論で説明できるわけじゃないのに、それしか見ないで「これが正しい」というような態度に落ち込まないようにしたいものですよね。
イプシロンさん、コメントありがとうございます。大乗仏教の書籍を今後読もうと思っていますので、重要なコメントありがとうございます。「矛盾する部分を無理やり普遍化したり単純化する傾向がある」とのことを意識していきたいと思います。また仏教通史も現在読んでいますが、全体から見る視点も忘れないようにしていきます。
イプシロンさん、コメントありがとうございます。「純粋理性の誤謬推理」から仏教の「諸法無我」の概念へ、そしてカントの仮言命法と定言命法からルソーの「社会契約論」への繋がりがとてもわかりやすく理解できました。どうしてもカントの「我思う故に我あり」に対する論駁が複雑でしたので、なかなかイメージできなかったのですが、我の無限後退はこちらもわかりやすくイメージできました。なるほど瞑想はこのような見ている自分と見られている自分の入れ替わりがわかるようになるのですね。体験して実際に感じてみたいと思います。
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誰にでも通用するような中小観念的な説き方になるゆえ、両者とも注意が必要ということかと。何でもかんでも相対性理論で説明できるわけじゃないのに、それしか見ないで「これが正しい」というような態度に落ち込まないようにしたいものですよね。
イプシロンさん、コメントありがとうございます。大乗仏教の書籍を今後読もうと思っていますので、重要なコメントありがとうございます。「矛盾する部分を無理やり普遍化したり単純化する傾向がある」とのことを意識していきたいと思います。また仏教通史も現在読んでいますが、全体から見る視点も忘れないようにしていきます。