ぜひ琵琶湖観光大使の成瀬と共演して欲しい>銅鐸くん 特に旧バージョンがキングジョーっぽくってよき https://ameblo.jp/guidebox/entry-12023553924.html
現地を訪れれば、採掘・選鉱・精錬に費やされた膨大なエネルギーに圧倒される。しかし、金も銀も食べることもできなければ(鉄や銅と違って)農具や武器といった日常の道具に使えるわけでもない。よく「昔の人は古墳なんかつくってないで、もっと役に立つ灌漑とかに注力すればよかったのでは?」と言う人がいるが、実用性がないという点では墓も貴金属も変わりない。鉱山遺跡に行くと、ホモサピにとって、貨幣や富とはいったいなんなのだろうか?ということをいつも考えさせられるのであった。
「貨幣が貨幣なのは、みんながそれを貨幣だと思うからだ」という岩井先生とかの主張よりは、MMT の説明のがずっとわかりやすい(だから正しいとは限らんが)。一般に、自然を扱う物理はそのベースに保存則があるのに対して、経済は無から有を生み出すことができると考えられてる。でも経済も、根本には「借りたら返す」「誰かの借金は、誰かの資産」という保存則があるのやもしれん。「プラスマイーナス、幸せの在庫はいくーつ? 誰が泣いて暮らせば僕は笑うだろう」と、みゆきさんも歌ってたしな。
まず線路がなくなり、バスもなくなる。電気・ガス・水道・通信といったインフラがあっても、学校や病院には行かないといけないし食べ物は買いにいかないといけない。日本の小さな街のほとんどが、老いて車の運転ができなくなった時には生存できない場所になりつつある。
球面調和展開して、係数の主成分解析、、、という解析手法はわりとベタである。2番目の主成分として見えてる左右非対称性とかはノイズとしちゃってるけど、意外とそこに工人の利き腕とか、美的に許容できる非対称性のレベルとか、いろんな情報が入ってるんじゃないかって気もする。
そこかしこに赤裸々な記述があって好感が持てる “領域全体の研究集会が開かれるたび、「こんな方法でこんな結果が導かれていいのか」「この推論は考古学以外なら通用しない」といった会話が(もちろんもっと口汚い表現で)本班のslack上に飛び交っていたのを思い出した“ 😅
自我というものが、肉体という入れ物と周囲の世界の相互作用において規定されているのだとしたら、ある瞬間には完全な同一の状態にあった自我のコピーを、別の場所(肉体)に移したら、その瞬間に「自」我ではなく他「我」になってしまう。逆にいうと、自分はイマ・ココにしかいなくて、過去の自分とか未来の自分とかは、たんなる幻想というかモデルでしかないのだ。そして「記憶」は、そのモデルに疑似的な連続性を与えるだけの情報でしかない。
「意思」の前には枕詞として「自由」がつく。それは「複数の選択肢の中から自分にとって一番都合のいいもの・あるいは『価値』があるものを選ぶことができる能力」を示すらしい。一方、環境を意思によって『制御』するというのは、自らの行動を「因」として、環境を自らに望ましい状況(果)に動かすということに他ならない。つまり「因果関係」を活用して、自らの行動(因)を望ましい状況(果)に結びつける能力=自由意志ということになる。しかし最適化すべき「望ましさ」が外部から与えられてるのであれば、全然「自由」じゃなくない?
ヤマギシと松下幸之助イズムは、たしかに同根っぽい。カルト村は異常な環境に見えるかもしれないけど、戦前は国全体がこんな感じだったわけで。。 https://crea.bunshun.jp/articles/-/33225
学問としての史学・考古学にできる限り忠実であろうという姿勢が明示されているので安心して読める。考古学が明らかにした、文献記述に関わる基本原則は(1)「自国の歴史書に書かれている王様の存在・事績は基本的にマユツバ(でっち上げでなくても盛られたことしか書いてない)(2)一方、敵国の書物、じゃなくて粘土板に書かれた「敵国の王様をやっつけた」という記述は信憑性が高い という2点に要約できそう。
文献に書かれたこと自体は真実でないことがほとんどだが「それを書いた人が読んだ人に対して伝えたいと考えていたこと」を読み解き、その傍証を残された敵国の文献や遺跡からよみとることで信憑性を高めることはできる。我々が持つ過去を再現する術は、その程度のものでしかないのであった(タイムマシン欲しい)
全人類に関わるここらへんまでの話が、本書だと第4章までで描かれ、5章でアブハラムが出てくると、あとはもうイスラエルというかユダヤ民族に特化した歴史の話である。もちろんその後になっても、モーゼがエジプトから脱出する時に海が割れた、、とか、ダビデってあのチ○チ○だしてるミケランジェロの像だよね、、とか、「わ-たしはあなたーの 愛のどーれい〜 🎶」って歌ってるのは、シバの女王なんだっけ? といった断片的な知識はあるので、なるほどこうした話も、すべて旧約聖書が原典なんだな、、、といまさらのように気付くこととなる
という感じで、文化と歴史に関する教養を深めるつもりで読んでたのだが、8章からはいきなり「異教徒を蹂躙しながらの『約束の地』カナンへの侵攻」「周囲の大国との対立と隷属の繰り返し」の話になって、「うーーん、いまもやってること一緒じゃん」とホモサピの学習能力のなさにゲンナリするのであった。
「木簡のいくつかは、国人が書いたものかも知れない」 → 主人公の国人という名前が、大仏造営に関わったすべての人を象徴しているということは、作品中の以下のやりとりで明示されている。
友人となった衛士の池万呂が、帰国するにあたって国人への想いを句に詠みあげる場面 → "〈青丹よし奈良の都の御仏を 鋳込みし国人 ゆめ忘るまじ〉「鋳込んだのは手前ひとりではありません。国中から集まった人足が鋳込みました」国人は感激しつつ顔をあげる。「ですから国人は〈くにびと〉と読ませていただきます」「お前というやつは」池万呂が絶句する。「何度俺の心を衝けば気がすむのだ」みるみる目に涙がたまった"
東大寺で発掘された木簡の記述や、銅の成分の詳細な分析によって、大仏のもととなる銅のほとんどを供給したのが、山口県にある長登鉱山であったことが明らかとなった。そもそも「長登」という地名は、奈良に銅を運ぶ場所「奈良登り」から来ているらしい。
本書はスカルン( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B3%E9%89%B1%E5%BA%8A )の模式図みたいな銅形成メカニズムの解説に始まり、奈良時代の採掘・選鉱・精錬がどのように行われていたのかを、発掘された遺跡の分析と再現実験をとおして解明していく。秋吉台行ったら、鍾乳洞にもぐったり地上で野焼きを見たりするだけではなく、すぐ隣にある長登銅山文化交流館(またの名を大仏ミュージアム!)にも必ず行くべし。
えすえふ、歴史もの、科学もの
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ヤマギシと松下幸之助イズムは、たしかに同根っぽい。カルト村は異常な環境に見えるかもしれないけど、戦前は国全体がこんな感じだったわけで。。 https://crea.bunshun.jp/articles/-/33225