んだけど、でも同時にやっぱ親として愛され続けてる。兄と違って愛されていない「おれ」が見る母親の姿。「シンクに寄り掛かって納得したように頷く義母の姿がおれの目に入る。そこには、自分の中にある慈悲深さを意識した人に特有の尊大な顔がある。それは、どこか卑しく、それ故に美しさを引き立てる。届きそうで届かない憧れが、子供だったおれを刺す。おれも、また、一番大切だった人の記憶を改竄したことがない。」切ねえ。理性がその醜さを伝え、魂がその愛を伝える。そして俺もそんな表情したことある気がするって、どきっとする。
それにしても冒頭の祖母の「人生よ、私を楽しませてくれてありがとう」と最後の霊になってる兄貴の「もう少しだけ、このまま楽しませてはくれないか、人生たちよ」の対比ってキマッた〜!みたいな感じ出してるけど、なんかずれてね?別にそこでなんも深まってなくね?う〜んどういうことなんだろ。とりあえず、表題はこの兄貴のセリフだったんだなって、読み終わると分かる。まあ最初と最後の「人生」の対比の妙味も、そのうち俺も死んだらわかんのかな。
味なんだろう?誰かわかりますか?それは真実が何か見極められない世の中、それどころか真実と思い込んだことで他人が死ぬこともある世の中、そこでは英雄であることを誰もが諦めるということ。ノアになることを諦めるということ。方舟を燃やす勇気が必要だということ?飛馬と不三子と園子が血の繋がっていない三人家族となって、迫り来る大洪水の中、方舟に乗せるための猫を、真偽不明の情報に従って探しにいく場面。飛馬から不三子、不三子から園子、園子から猫へと英雄にならなくてもいい、最小距離の「助けたい」と言う気持ちが連なって、空き家
なんでしょうか?25歳と付き合い続けるレオナルド・ディカプリオみたいな?このどうしようもない小説がでも、あの素晴らしい「異人たちとの夏」に繋がっていくのかぁ。
「自然という主体なのである。」という締めにしびれたね。自然なんだというところと、自然は主体(システムではない)なんだというところ。これは謎がなにかが明かされないまま進んでいくサスペンス小説で、最後に「実はこの小説で探していた謎、それは自然だったのです」というユクスキュルの自然への畏敬と愛の宣言で終わる。 あと解説読んだら、ドイツ語をどう訳すかで環境じゃないんだよな〜と「環世界」という言葉を作ったとあってよくぞいい言葉作ったなと、人が「いい環境を」と口にする時じつはそれは「いい環世界」を意味しているというの
も目ウロコだった。つまりいい環境というのはその人の持つ環世界によって違う訳だ。神宮外苑の木を切って再開発するのが「いい」環世界の人もいれば切ってんじゃねーよと思う環世界の人もいる。だから主体同士のすり合わせが重要になる。ほかにも「解発」とか「作用トーン」とか初見でなんとなくわかる言葉がこの本は多くて、きっと訳者の人のグッジョブだったんだろうなあ、などと思った。
とかあるんだろうか。余談コーナーに「先日、とある文学賞の二次会で先輩の作家が受賞者の若い作家に向けて「小説の肝をつかんでいる。どういうことかというと、言葉が自分の外にあるとわかっている」とスピーチされていて、そうやんなあとしみじみ思った。自分の外にある言葉を探し続けるのだ。」と書いてあって、なんだよそれ!どういうことだよ!と思ったが数十ページ先に自著『きょうのできごと』の解説で、同じ時間を複数人の視点から描いたり、同じ場所を複数の時代のできごとに重ねて描いたりすると書いていて、そういうことかなぁと思った
りした。いや違うわ、その後ろの部分「一人のシンプルな視点と語りでは世界の複雑さを表せないし、客観的な三人称も存在しないと思っている。世界を描くには、「ある私」を通した世界の感触を複数積み重ねるしかないし、複数積み重ねたその間から響いてくる声が小説なのだと思う」ってところ、つまり小説で使われる言葉はその言葉が指す意味の外側のために存在してるってこと。ってわけかぁと思った。いやそうでもなくて、ただ新しい言葉を採掘セーやその都度、その採掘シャベルを変えるために別の魂や時代を都度設定するってことか。
それって自分もたまに、俺の両親はまだ生きてるけど、そんなことやってる気がする。ああこのこと覚えておこうとか、これを父との思い出にしとこうとか。ケイと久しぶりに男女の関係になって、妻との関係性、こっそり両親に会いにいく時のうしろめたさを思い出すのもなんかわかる。でも全てが消えていくことを前にした時、すべては瑣末なことなんだよな。それなのにいつもうまくできないんだよなおれたちは。わかっていても、いつも両親に思いきり甘えたり、女に隠し事なく全てを打ち明けながら、
自分の心と相手の心と正しさの羅針盤を混ぜ合わせて、その先へ進むことに失敗する。いっつもなんでうまくできないんだと思って、でもやっぱり最後は「もうなんにもいうな」で、「あんたをね、自慢に思ってるよ」で、ありがとうなんだ。このすき焼きやって浅草の今半本店らしい。いつか両親招待して、異人たちとの夏ごっこしてみたいな。
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後半に段々畑で夕陽を眺める夫婦をバスから一瞬目にする時、その幸せを私は理解できないだろうと書いているところだけど、理解できないということも理解できていないだろう、と読んでいて思った。戦争について書いていて、私には私が思ったことそのままを書く力がある、と思って書いており、そうすれば魔法のようにそこに真実が生まれるという驕りがあり、だがそうではないと言いたい。自販機の中に入りたい自分を説明する妄想シーンだけは良かった