「日本映画オールタイム・ベスト10」をやったので、「外国映画オールタイム・ベスト10」をやってみました。今観たい映画なので、厳密にはベストでもないのですけど。 https://note.com/aoyadokari/n/n224f4d39aad2
無理しているような感じを受ける。また死についての著名人の引用など、その恐怖心といつも戦っていたのだろう。それはプライベートの中のソンタグの姿であり公でのソンタグは絶えず強く自分の思い通りにしなければならいと思っていた意志の人だったのだろう。そうした強さの中に弱さも見いだせるが、大好きなベケットの墓地に祀られたのは良かったのではないか。
noteの記事から興味を持って読んだが面白かった。他の「ディカーニカ近郷夜話」(最近公開されたロシア映画『魔界探偵ゴーゴリ』シリーズがこの物語をオカルト・スリラー仕立てにしていた)も読んでみたい。https://note.com/1181kd/n/nf8f72c6ffad1
その罵声が女性蔑視というのか時代のせいなのかかなり酷いから今ではあまり上演されないのかな。貞操であれみたいな話だし、あとピザーニオの忠義心かな。活劇としてもシーザーとの戦いで面白かった(確かに盛り込み過ぎるというのはあるかもしれない)。あと『ダロウェイ夫人』の最初のシーンに影響を与えたとか。これを読むきっかけもアリ・スミス『冬』で言及されていたからだ。シェイクスピアのイギリス文学に与えた影響の大きさを知る。
それが自身が癌宣告を受けてそれを親友の写真家に撮影させるというスキャンダラスな事件をも予想していたと思うのだ。そういう意味でソンタグ自身フリークス的身体性(これは老いや病では誰でも経験するかもしれないのだ)を晒したのだと思う。それは息子との解釈の違いは当然であり、そこから議論が生まれていくような問題提起としてのソンタグの姿なのだ。大江健三郎との討論は朝日新聞という紙上でのもので、ボスニア民族紛争でのNATOの爆撃の是非という問題があったのだ。その行き違いがあったのだと思う。討論ではよくあることだと思う
隠喩については大江健三郎は文学者なんで隠喩を使ってしまうのだろし、ソンタグは批評家なので言葉の意味を明確にしないと気がすまない性格なのだと思う。その行き違いだから、結局ソンタグも9.11のときは軍隊派遣に反対していたので、そのときの討論は無駄ではなかったのだと思う。ソンタグの論争癖みたいなものがあるのだと思う。それは批評家として当たり前のことなので、ソンタグのスキャンダルを述べるのはそれで興味を持つ人もいるだろうが、『隠喩としての病』は癌だけでなくエイズやウィルスがあらゆる場面に使われているのだ。
むしろ『眉隠しの霊』の方が面白かったような。こちらは湖の女神だろうけど、山姥のような婆さんいて、不倫した嫁が猟師に撃たれる悲劇なのだが、鷺の生まれ変わりとか、聞き手が池の鯉や鮒に投影して鷺に食べられてしまう幻想とか、いろいろな幻想譚の組み合わせで一つの方向にまとまるのではなく、様々な民話や古典文学がその中に組み込まれているのだ。解説だと木曽義仲と巴御前の悲劇も織り込んでいるとか。始まりが弥次喜多の口語体からめくるめく幻想世界へ旅人を誘うのである。それは喪失した日本の文化なのだろう。
ミルグラムの実験や人の思考をコントロール出来るとされている。それは権力側の管理システムによって、日本でも利用されたのが軍事教育や教育勅語による国家の為に犠牲となる精神だった。アーレントはそうした国が規定する国民とギリシアのポリスから発祥した市民を分けて考える。市民による直接民主主義は、代議員制になると人任せになり少数による支配が可能になる。自ら考えることを放棄する国民を国家は育て上げる。その中で正義は国家の定めるものになり、それ以外(他者)は悪とされる。
大江健三郎のリアリティは死が隣り合っている世界として語られる。疫病にしても母を看病した少女が死と共に取り残されて、少女も疫病で死んでしまう。また脱走兵は子供たちと生活するが、村人が戻ってくると殺されてしまう。それは戦時の軍隊では当たり前のことだった。ベ平連なんかの米軍の脱走兵とかも連想させる。子供たちの共同体も学生運動のバリケードとセクト間の争いも連想できる。それは兄弟の中でも兄は愛人が出来弟は従属させる犬が出来て事件が起きるのだった。子供たちの中にある分裂と大人たちの統制の中にある閉塞感は今も問題となる
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