九月は体調不良だったり(夏バテ)一日置きぐらいに元気だったり引きこもりだったり。読書の秋と言われるが。夢見る『源氏物語』から諸行無常の『平家物語』へ。2024年9月の読書メーター 読んだ本の数:25冊 読んだページ数:6684ページ ナイス数:794ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2024/9
第六十回短歌研究賞受賞後第一作 五十首坂井修一「擁腫」は「擁腫」が読めない漢字だが「癌」のことのようだ。癌で入院した惨めな様子などを詠んでいて親近感が湧く。平井弘「憂さばらし」は老獪な旧送り仮名とひらがな主体だがどこかとぼけた感じだがシビアな現実を読む。雪舟えま「家読みシガとクローンナガノー凍土二人行黒スープ付き(短歌版)」は物語風短歌。家飲みと読みをかけたのか、ネットのお遍路二人旅というような内容。石井辰彦「五つの海の傳說」。これも物語短歌だった。
その後次第に歴史的悲劇から個人を哀悼する詩になっていく。個人的な抒情詩になっていくような亡き妻に捧げた潘岳「|棹亡詩」は人麻呂「泣血哀慟の歌二首」に通じるのかもしれない。https://note.com/aoyadokari/n/nf48e9e53461f
俳句というコミュニケーションを考えた時に季語というイメージから自身の空間(領土)を詠むということなのかと思う。「人を殺めし人の真心草茂る」殺人犯の心境を真心なんて詠むのはどうかしている。そこに「草茂る」のである。ネットスラングでは「草(くさい)」ということになるのだが。そういう時代錯誤の虹の夢を追いかけている狼なのかもしれない。
短歌は生活詠ということで、近藤芳美の弟子みたいな感じなので今の短歌よりは昔の様子が伺えるような頑固な豆腐屋の主人と兄弟たちの家族愛の話が中心となる。その中で新妻の奥さんを迎えての歌人として有名になったり地方紙に記事を書いたりする文章は読ませるのだが、ノスタルジックな感じを受ける。確かに文章が上手いのだがあまりにも愛情あふれる家族なんで、主観的すぎるかもしれない。最後に『相聞』を載せたり、その前に読んだテロの死刑囚を描いた『狼煙を見よ』に比べて甘い感じがした。
歌人以外の外部の人を招いての批評とか興味深い。今の歌壇の停滞は内輪だけに留まっているからだろうか?日常詠よりは時事詠に興味があり、当事者と批評性も興味深い内容。けっして当事者の歌がいいというわけではないが、日常詠が即時事詠になるような歌に憧れる。東日本大震災から震災の短歌を読み続けている人が高野公彦の震災時事詠かなわないというのはなんだろう?歌の上手さがあるのだが視点の違いだろうか?「香水」という地震とは全く関係ないものから地震を詠む。
黒木三千代の自身の身体性を通して時事を詠むというのは新鮮だった。「声に出して読みたい短歌」ではネット時代を反映してか、黙読の中に声を聞くというような指摘があった。絶叫短歌とか演歌みたいな短歌は今は流行らないのだろうと思った。田中拓也の短歌で小高賢はもう故人だと知った。馬場あき子のインタビュアーは小高賢だと勘違いしていた。
日本語なのに理解できない歯がゆさ。ルーマニアの詩でも翻訳でも犬の象徴は理解出来る。カフカの犬もそこに含まれるのだ。ほとんど現代詩は現代詩をつくる人以外は読まないのかもしれない。でも詩はマイ・ブームだった。
穂村弘が和歌から短歌は正岡子規の時代で切れていて、われの自己肯定となっていく、なんでもわれは生きていく肯定感なのだと。その説明に納得した。どうでもいいただ事歌も自己肯定として受け入れるのだった。それが共同体のあり方で批評性は問題にならない。ようは共感さえあればいいのだという。
性暴力の問題はそれを受けた被害者と加害者では感情が違う。そこをあえて感情的に書いているのか。先日読んでクッツェー『その国の奥で』でも性暴力のトラウマ(PTSD)については甘いと思ったが、ここまで感情的になるとちょっとついていけない気がした。別についていく必要もないのだが、そういう世界もあるということなのかもしれない。個人の関係性(プライベート的な)は本当に難しく司法で処理するのも困難な社会なのである。その中で社会共同体を立ち上げて解決していくしかないのだろう。癒やしを求めるというと宗教的に感じてしまう。
短歌より二物衝動の俳句のほうが相性がいいのかなと思っったらシュルレアリスム短歌と呼べそうなものもあった。「ボタンは一瞬いっさいの消滅へ、ボタンは人類な無へ、──ああ丸い丸いちっちゃなポツ 加藤克也」ボタン穴がブラックホールみたいだ。最近の女性歌人たちは奥せずシュールな作品を作っているようだ。「きみにしずむきれいな臓器を思うとき街をつややかな鞄ゆきかう 平岡直子」。シュールと言えば和歌風の古語の歌なんかシュールに思える。巫女的なもの。
そんな情緒的な面に訴えるところがあると思うのだが全共闘闘争から孤立してテロリストになる心情も書かれていると思う。ただあまりにも一途だったり、杜撰だったりするのは若さなのかなと思う。それはテロリストの中でも性格はそれぞれ個性があり、彼は人間の弱さについて描くのだが、テロリストの中にはそういうことは革命の下に置き去りにされていく。一番のショックだったのは、大道寺あや子が北朝鮮へ行ってしまうことだろうか。母はそれが現代っ子だと思うのだった。
四十過ぎてから何もかも捨てて逃避行のような自立をするのだが、それも必要だったのかも。ただその影に女ありなんだが、そこは詳しく語られなかった。歌壇でも兄貴分(父性)として後輩の面倒見がいい人なのかもしれない。岡井隆がよく分からなかったけどますますよくわからない人だと思ってしまった。
「あはれ」「をかし」などの情感を助動詞を活用し短縮詩に凝縮させたのではないでしょうか。子規は萬葉的な写実こそ本来の姿と貫之の古今集をこき下ろしたのだと思います。
中臣鎌子に視点が移ると物語が動いて面白くなっていく。最初に取り入った軽皇子はどうしようもない皇子なのだが、ポロ(鞠打・『光の君へ』でおなじみの)で颯爽と登場する中大兄皇子が理想の国造りに燃える皇族で鎌足は彼に可能性を見出すのだ。そして蘇我氏滅亡のシナリオが出来る。入鹿暗殺の場面の臨場感は映画化してもらいたいほど。入鹿が殺されたあとの蝦夷の悲壮感。さらにその後の皇族同士の殺し合いの世の中になって失意のうちに鎌足は世を去っていく。この巻きは歴史的にも面白かった。ただ皇族の名前が混乱するので系図が必要だった。
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