映画の話。『モンタレー・ポップ』は六十年代後半にタイムスリップしてしまうライブ映画で感動した。ジャニス・ジョプリンの凄さと言ったら... https://note.com/aoyadokari/n/n8845adc6617c
入沢康夫は宮沢賢治は手帳にシャープペンシルを持ち歩いて、素早くそのときの感情を詩にして書きつけたという。そういう生々しさの詩的体験を読んでいく感じだ。内面の精神日記と詩の中間ぐらいの感じか。中原中也が何冊も買って、友達に配ったというのはよくわかるような。詩の入門として、面白いのかも。
地獄は双六とかあってサイコロの目が南無阿弥陀仏だという。あと盂蘭盆の元になったと言われている。極楽絵よりも地獄絵が好まれるのは、やはりこの世は地獄だと思っていたのかもしれない。
巻末近くに意訳と書き下し文が掲載されているから、そっちの方が意味は汲み取りやすいかもしれない。それは今までそういう説明(小説)を読んできたからだろうか?面白いのは「絵心経」。その絵は漢字の意味とはまったく関係ない。御経として唱えることが意味あることだからだ。もともとサンスクリット語を中国の玄奘が漢字に翻訳したのを、また日本語で解説するので、厳密な理論がわかるわけないのである。まあその時間が一切が空だということがわかればいいのかな。あとはひたすら無心になって御経を唱えろと。
藤壺が影響を与える昼の世界と六条御息所が影響を与える夜の世界に分類する。その元に母性という光源氏が手にしたい世界があるのだ。それは母であるが愛人としての近親相姦であり、それが天皇の妻であるからなおさらタブーである行為なのだ。近親相姦的愛の物語は神話的なのか、藤壺の物語はそうなのだが、次第に現実的な愛の物語になっていく。それが様々な女の物語なのだが、最終的にはそれらから解脱していこうとする仏教思想があるようだ。その変化は作者である紫式部の変化であるという。影響関係にある『栄花物語』との比較の一覧が面白い。
「山川草木そしてわたくし去年今年」なのであり、昭和俳句の座談会で最初に取り上げられたのが虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」なのだ。みごと「棒の如き」虚子の俳句で貫かれている「角川 俳句」であった。
玉鬘が髭黒とくっついたのは、良くわからなかった。紫式部は髭黒のことを悪く書きすぎだと思ってしまう。誰も幸せにならない結末だ。惨めなのは元妻で「もののけ」が付いたとかエクソシスト(悪魔祓い)とか呼ばれてしまう。『源氏物語』の「もののけ」は同情してしまうものが多い。今の時代なら「もののけ」ではなく当然の感情だと思うのだ。それを「もののけ」のせいにしなければならない悲劇がある。まあ、この巻で一番面白かったのは近江なんだけど、近江の性格に救われる。
光源氏の一人称なのに、神の視点というか夕霧の行動も玉鬘の過去も把握している不思議。たぶん光源氏にはスパイ網のようなネットワークがあるのだろうと考えているが、三人称である語りもあまり不思議に思わないのは、第三者的視線によってコメディ化されているからなのかと考える。光源氏の批評としての『源氏物語』という紫式部の『源氏物語』とはまた違った面白さがあるのかもしれない。紫の上との対話も嫉妬する妻というコメディタッチのような。
漢字の問題は、当用漢字が国が定めたものだから従いたくないという思いがあるのがわかるが、それがネックとなって旧字は理解するのが大変なのだ(だからせめてルビぐらいと思ってしまう)。塚本邦雄とかそうだけど、そういう人はこれからますます読まれなくなってしまうと思うのだ。第二外国語なのかと思ってしまう(実際にそういう意見もあるのだ)。すでに古典なんだよな。勉強しなきゃならない。
だが「薄曇」で不義の帝の不幸を自らの罪であり、藤壺が思っていたよりも心残りなく亡くなったのを許せないのだ。不義の子という堂々巡りは桐壺帝が答えてくれない限り解決はないのだろう。そこはあわれであるがそのあわれさをあはれ(古典的美へ)と昇華させていく物語なのかもしれない。あと僧に対する憎悪感とかそこが光源氏の抹香臭くならない派手さの良さなのかもしれない。光源氏のダークサイドの王はかくまでも怪しく美しいのか?
「雛飾りつゝふと命惜しきかな」「露の世の間に合わざりしことばかり」星野立子の晩年の二句に感情が込められていると思う。短歌的とでも言えばいいのか、そこには私を脱ぎ捨てられない私(詩)情があるような気がする。
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