2025年2月の読書メーター 読んだ本の数:34冊 読んだページ数:8605ページ ナイス数:1032ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ 今月も読書は充実していた。読書ぐらいしか充実するものがないのかもしれない。古井由吉の『詩への小路』はリルケの「ドウィノの悲歌」の翻訳詩のアプローチなのだが、韻文から散文詩にするという力技で面白かった。コミュニケーションの本『言葉なんていらない?』とかhttps://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2025/2
それは「物語」につきものの抒情性を排除しているからだった。 この『平家物語』が中国の唐代の内乱から始めていたのは女禍ということだった。大まかな政治は男性中心で女が関わると内乱が起きるのだった。それは女性が政治よりも感情を優先するものであり、その力を利用して摂関政治になっていくのだが、大きな政変は頼朝を斬首せねばならなかったのを池禅尼が息子に似ているからと清盛に助命する。そこで平家の物語に抒情が入ってくる。
さらに常盤御前の存在だった。義朝の妻でありながが息子たちの命(とくに牛若を助けることになる)を守るために清盛の側室のなるのだった。この話は母性の抒情で物語化されるときに、元来あった『平家物語』のような話になるのであろう。それを理想としない視点こそが橋本治が物語批評とした『双調平家物語』なのだ。 https://note.com/aoyadokari/n/n27debc35a5b1
じゃあ、どうすればいいのさ、となると生き生きとしたものを模索していくしかないのだと思う。ただそれは否定的に生き生きとしたものを語っていくのは否定神学的にやはり宗教的な問題なのかもしれないと思ってしまうのだった。
信頼をはじめ「しんらい」と読んでしまって天皇制を信頼する人なのかと思ったら「藤原信頼」だった。藤原信頼が藤原家最後の執政であり信西と対立し、信西を斬首するのだった。その敵を平清盛がうって「平治の乱」が終わり武士の世界となる。信頼は源氏の源義朝をそそのかすのだ。彼は源氏の頭首であり、頼朝の父であった。ここが大河ドラマのようにスッキリ描かれずに中国の玄宗皇帝まで考察していくので難しくなるのだと思った。義朝の重要さ(清盛と対峙する)になかなか気づけなかった(敗軍の将であるから)。
今まで感情を抑えていた妻(妻の場合家父長制がある)の場合、それで夫をいたぶるようになるというのは、ドラマでも最近見たAI主婦ロボットが暴走するという『カサンドラ』というNetflixドラマを見たからだった。コミュニケーションも問題なので、家族の病いと見たほうがいいのかも。陥りやすいのは白黒判断しないと済まない人で、グレーゾーンがある人間はAIのようではないとことなのだった。しかし今は人間の方がAI化が進んでいるのかもしれない。
中世でキリストの告白じゃないかと読まなかったアウグスティヌス『告白』とかキリスト精神に反する(キリスト教に帰依する前のやんちゃ時代の罪を告白しているとか)ちょっと興味が出てきた。プラトンで止まってしまったのはソクラテスとプラトンが一致しなかったからなのだと思った。そしてアリストテレスで放棄してしまった。
ネリーの侍女性は『源氏物語』の紫式部のような感じかもしれない。スラッシュクロス家はキリスト教的な善意の一家だが、ヒースクリフが憎むのはロマ(ジプシーのようだと書かれているが)ケルトの血筋だったと思われる。そして、復讐心で「嵐が丘」も「スラッシュクロス」も手にしたかと思われたときにキャシーの味方になるのだがヘアトンだった。ネリーはヘアトンには義兄妹的に育ったヒンドリーの面影を見て優しい視線なのだった。そのヘアトンが叔母であるキャサリンに似ているというストーリーも見事である。
『啓蒙の弁証法』の「啓蒙」ということがすでに権威的になりうるのではないのか。ヘーゲルの弁証法も。そこを否定したのがニーチェだと思う。文化がそもそも人間中心になること自体自然と反することなのだと思う。
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中世でキリストの告白じゃないかと読まなかったアウグスティヌス『告白』とかキリスト精神に反する(キリスト教に帰依する前のやんちゃ時代の罪を告白しているとか)ちょっと興味が出てきた。プラトンで止まってしまったのはソクラテスとプラトンが一致しなかったからなのだと思った。そしてアリストテレスで放棄してしまった。
https://note.com/aoyadokari/n/nfc08c3837323