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やがて「友達を作らなければならない」の観念に強迫されたり、逃げたい気持ちを否定し出す。幼少期にジュリーに性的な意味で好きになったり母だけが家事も仕事もやって父は家事をしないことに疑問を持っても、周囲に話せる雰囲気はない。客観的にも恵まれてるとみられ理解されない。「普通」じゃない自分を受け止め、腹の底にある想いを表現できるような言葉を見つけられず、常に誰かの価値観や評価基準に振り回される。遂は自殺未遂や母親への暴力に至った。しかし中高時代に偶然関わった女性センターと修道院で多くを学び、変わった。(4/5)
疑問を持っていい。疑問から生じた、自分の生き様を揺るがす信念や政治的な言葉は、人に話すことで知識が自分の内心を震えさせて、初めて自分が納得できる言葉となる。また正直であっていい。神には人には言えない怒り、憎悪、軽蔑も隠さず話してよく、それが祈りとなる。語り尽くすことで自分の思い込みから抜け、安らぎを得るのだ。さらに人間に対して神にするように従う必要はない。神ではないお前が私の行動を決めるな、という自己決定の話である。もちろん誰の言葉も絶対に正しい事はない。これらは、誰にでも共通する話のはずだ。(5/5)
終盤になると、舟の先に一羽のかもめが止まる。海からしたらなんとも小さいかもめの、目に見えない大きさや温かさ。あなたのことを笑わないよ。「まっててくれる?まってるよ」。改めて、大きな海は私たちのままならない感情であるとともに、ままならないこの社会の動きだろう。でも最後のページの海は、青くて広くておだやかだ。舟の子は、ありのままの海のありのままの美しさを見れたんじゃないかな。僕も、この海を見れるようになりたい。大人でも刺さる人は多いはずだ。著者はエッセイの方が有名だけど僕はこの本が気に入っている。(2/2)。
改めて六車には、どうかそのままでいてほしいと願いたくなる。終わりのない揺らぎの中で、全力で相手をわかろうとし、できることを続ける。そうして六車も利用者のみんなもスタッフも、喜んだり喧嘩したり悲しんだり考えたりしてお互いの歴史がクロスし、各々の人生を変えながら大きな樹となる。何もできなくなっても、そこで助けられることが新たな道を創造する可能性をも生む。そうやってお互いの命が支え合えるのだと思う。僕もそれを信じていたはずで、今は信じられなくなっていて、でもやっぱり信じたくてこの本を取ったんだと思う。(7/8)
その他気になったこと。親密さとは「体液の交換」である。その人に身体的によりそい、声を交換することで親密さは築かれる。元は斎藤環の記事。コロナ禍のマスクとアクリルボードがさりげない触れ合いを防いだ時、対話や寄り添いもエアロゾルという名の体液の交換に過ぎないことが浮上したのだ。でもそんな制限の中でも、利用者たちは結構いろんな工夫をして、自分からつながろうとしてくれた。おもしろいと思えることをとにかくやり続けること。むしろこっちの方が印象が強かったかな。 (8/8)
見当たらず、むしろ自主規制の方が強い。彼らは公正中立な客観的報道主義を理想とするが、それが結果的に現状維持を促してしまう。「世論」を追うことになるからだ。しかも公的な性質を度外視して「みんなの意見だから正しい」という道徳的価値が付加されている。一方で時間のかかる「輿論」は、その時間耐性も無視できない。私たちが想像できる自己は2〜30年程度しかない。技術が発展するほど、人間に由来する問題が人間から現れ、そのたびに社会は情動で動く。⑤人々のテレビに対する意識構造はSNS時代でも変わらない。その意味で(7/8)
歴史は鈍化し、メディア教育もビジネスの本質である快適化が進む。メディアは本来は理性を理念とするが、現実には感情に働きかけたから政治が動く。例えばピュリッツァー賞受賞記事では、取材対象の感情的な語りを表面化しながら、記者は社会的距離を保つことで「感情表現の責任」を回避して意見表明する。こんな印象操作術は当たり前にある。最悪「犬笛」が吹ける。メディアは自分達が感情報道であることを自覚するべきだ。――こうしてみると、情報は「誤」「偽」でなくても実に曖昧なものだ。また、輿論と世論の切り離せなさもみえる。(8/8)
遠藤くんの話。彼の親代わりをしていたお婆ちゃんが夏休みに突然亡くなった。初めてこのことを話したのは菅井さん。プールの授業で二人が見学になった時だ。けれど菅井さんは親の仕事の問題で内緒のまま引っ越すと言った。プールの中で楽しそうなみんなは別の世界のようだ。「何もできない自分が悔しい」「でも大人も見守ることしかできない」もう暗くなるのに遠くだけが茜色に灼ける。プールサイドで保健室の先生と並んで座る。彼の目に何が映ったのだろう。先生は2人に優しいまま生きてほしいと願う。手で掬うと零れ落ちそうに切ない。(4/5)
翔子ちゃんの話。高校に入った翔子ちゃんが保健室にやってきて、泣き出してしまう。圭ちゃんが死んだ。初めて自分のことをバカにしない友達だった。彼女の両親は少しずつ仲違いし、母親は心を病んで入院した。圭ちゃんの夢はもう一度お母さんと暮らすこと。けれどお母さんは自分の命を絶ってしまった。翔子ちゃんは悩みに気づけなかった自分を責める。翔子ちゃんはバカじゃない。圭ちゃんは優しいあなただったから一緒にいたんだよ。ひとは生きている間、夢を探し続けているのかもしれない。先生もだ。だからさ、一緒に生きていこうよ。(5/5)
なるほど,そういう趣旨なのですね。「どれだけ頑張って記録したところで忘れるときは忘れるから大丈夫だよ,それこそ身体・脳(のポンコツさ加減)を信じましょう」的な戯れ言が浮かびます笑 ▽忘れないと取捨選択に支障が,というのはライトノベル『フォーチュン・クエスト』の賢者を思い出させます。目にしたものすべてを記憶する呪いをかけられたために,大切な人との思い出が日常の些細な出来事の記憶に埋もれていってしまうという。
いやあ、さすがにそこまであけすけじゃないんですけど、ほぼ合ってますwフォーチュン・クエスト!知らなかったのですか、めっちゃ長期連載してたんですね……!すべてを記憶する呪いの話は、むしろ『忘却の効用』の事例に近いですね。すべての記憶に優先順位がつかなくなり、さらに「木を見て森を見ず」みたいな、抽象化できずにただ膨大なコマ撮りの記憶がかさばっていくので、酷いと外に出歩けなくなるという……。児童向けの物語なのに、リアリティが的確で驚いています。
気になったこと1。忘却の"ふるい"は人によって違う。無意識の優先順位づけが個性を生むのだ。また睡眠はその日の大量の不要な記憶をリフレッシュし、それが記憶同士を自由に繋がれる状態にさせ、忘却と反比例してアイデアが出やすくなる。意思決定の場面では、人は見たものを経験に基づいて即座に計算処理するあるが、偏見や、自分の判断を後付けで美化して構成するなどのバイアスで間違える。こういう時、ゆっくり考えたり決めたことを振り返ったり変更したりするなど、疑ってかかる態度が大事。私は即決即断が苦手なので励みになる。(3/4)
気になったこと2。忘却は大事なものとそれ以外を分けるが、望まない形で「大事な人」と看做されなくなった人はどうなるんだろうか。ここで居所不明児童生徒やセルフネグレクトが引っかかる。まず忘却は脳の健全な機能であること、その過程に個別性が宿ることは抑えたい。その上で、あらゆる個人にダイレクトに「この世の全てを大切にして」と求めるのは難しい。ここを乗り越えるために社会の仕組みとして、自然とたくさんの人との交流が起こったり、いがみあった他者との繋がりが作り直せる機会が生まれるような機能が必要ではないか。(4/4)
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やがて「友達を作らなければならない」の観念に強迫されたり、逃げたい気持ちを否定し出す。幼少期にジュリーに性的な意味で好きになったり母だけが家事も仕事もやって父は家事をしないことに疑問を持っても、周囲に話せる雰囲気はない。客観的にも恵まれてるとみられ理解されない。「普通」じゃない自分を受け止め、腹の底にある想いを表現できるような言葉を見つけられず、常に誰かの価値観や評価基準に振り回される。遂は自殺未遂や母親への暴力に至った。しかし中高時代に偶然関わった女性センターと修道院で多くを学び、変わった。(4/5)
疑問を持っていい。疑問から生じた、自分の生き様を揺るがす信念や政治的な言葉は、人に話すことで知識が自分の内心を震えさせて、初めて自分が納得できる言葉となる。また正直であっていい。神には人には言えない怒り、憎悪、軽蔑も隠さず話してよく、それが祈りとなる。語り尽くすことで自分の思い込みから抜け、安らぎを得るのだ。さらに人間に対して神にするように従う必要はない。神ではないお前が私の行動を決めるな、という自己決定の話である。もちろん誰の言葉も絶対に正しい事はない。これらは、誰にでも共通する話のはずだ。(5/5)