ドストエフスキイにとって、ロシアの大衆ひとりひとりを西欧的な公民として政治的に訓練し、彼らを政治的社会的な言語的表現の回路に登場させようとすることは、たんに不可能なことであるばかりではなく、無意味なことにすぎなかった。なぜならば沈黙のうちに生き死にする自然態としての大衆の願望は、けっしてそのような回路においては表現できない何ものかであると彼には思われたからである。(97頁)
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます