kazukitti 主人公の昼行燈な感じとかただの朝顔オタクなのに、ヒロインとの絡み、史実の事件との関係とか、葉室作品の典型的サムライ像に近いくらいの生き様って印象すらあったかな。続き、というか姉妹編出てるから読んでみようとしたら、この見事なラストからさすがに続きとはいかなかったらしく、前日譚てのが大人の事情を垣間見るという穿ちみw
草介の身分違いの恋とかは明るい方向へだけど、鳥居の登場なんかも含めると出張研修から帰ってきたら、世の中は明治への時代の変化の前の動乱の時代に差し掛かる感じになるわけで、ハゲ先生とかも下手すりゃ高野長英と連座で獄死もあり得る情勢だから、前途が明るいんだか暗いんだかナンダカナーになっちゃうしで。あと、ラストの告白の流れはちょっとヒドかったわw でもやっぱキリはいいけど、シリーズ終了は残念。梶さんのは他のも読もうと思う。
そーいや、子供が事件の目撃者で犯罪者から追われて、且つ捜査側からも他の何かの理由で追われるとか割とサスペンスではテンプレよね。どっかで見たことある話。映画でも、刑事ものとかのシリーズドラマでも1エピソードくらいは子供絡みで作ってそうw そういう意味では、構成も含めて極めてありきたりではあるんだろうけど、それでも読ませちゃう面白さってのはすごいよね。
ちょっと戸惑いも止む無しでやってるのかもだけど、不親切感は拭えないってゆーか。入門という意味では、これで興味を持った人がその作家の作品なり、直でこのシリーズなりを手に取るきっかけにはなるんだろうけども。そういうことなら、今後西條さんと中島さんを紹介してくれてありがとう感はなくもないけども、まぁでもナンダカナーはあるよね。特に西條さんのは冒頭サッパリわからんかったからこりゃ本編読まねぇとダメだわって動機だしw
空気の読めない唐変木と勝気お嬢様って組み合わせも、まぁテンプレではあるw その昔の昭和の白泉社コミックスみたいな気軽さで読めた。読めたは読めたんだけど、この巻は割とこうキーになる話だったらしく、ぼんくら昼行燈のぬるま湯生活との決別っぽい意気込みとか、ヒロインとの別れみたいなの(なんだよソッチかよってオチも含めてw)とかあって、それはやっぱり最初に読まずに、1巻目読んでからのがよかったなぁなどw
父親が師匠で超えられるぬ壁とした立ちはだかるってのも、芸事で親が自他ともに認める天才じゃなかたっとしてもフツーによくあることよね。でも、ソレを定朝の時とは違って、真正面から、河鍋暁斎のむすめ「とよ」としての絵師・河鍋暁翠の物語として書かれたってのは、読みごたえがあったと思う。あと、肝心の絵そのものについての描写みたいなのは、やっぱり弱いんよね。当たり前だけど、絵についてのバックボーン知った上で鑑賞しないとソコは「おはなし」では伝わらないと思う。これは澤田さんだけじゃなくて、今まで読んだ全般の傾向だけど。
あとね、これはもう個人のスタンスの違いでしかないから、好きか嫌いか合うか合わないかで基本平行線なんだけど、愛憎は個人の葛藤の中に生じるものだけど、絵はもっと自由なものだよ。澤田さんは、血や他者との関係に縛られた桎梏の定めって設定が大好きみたいだけど。
どっちが高尚で、どっちがガキ向けだから格下ってことはないんよね。読む方が好きか好きじゃないか向いてるか向いてないかって話で。まぁおはなしそのものは、性善説のスタイルで、「史実」ではどうだったかはともかく、この作品の内の視点者からの眺めはそうだったんろうなってことなのかなって。続きがありそうな書き方ではあったけど、ソコは数字次第なんだろうね。タイトルがコレなんだから、表紙ももっとくだけた、何ならラノベスタイルを踏襲した方が数字は良くなるんじゃないかなとも思う。他の作品にも目を通す方向で。
しかし、磐音もそうだけど、そんなにクソよく出来過ぎた優等生なセガレって必要かね。多少ダメな方が「人間だもの」って思えると思うんだけどw まー佐伯さんの若き主人公像って、初代の磐音幹次郎以外の若手は、政司みたいな「本当によく出来過ぎた一点の曇りもない優等生」にシフトしちゃってるみたいだから、おっさんズドリームってのはそんなもんなのかもしれないね。そーいや、古着屋の棟梁もそんなだったし。
高階成忠の架空の子供を学僧の主人公にして、定朝の成り上がりと絡めたのは、結局クライマックスの上東門院(彰子)の女房(作中では中務)の死体遺棄事件の渦中で、史実でよくわからないとされる人物に置き換えるためだったんだろうけど、その所為で本来主軸のはずの隆範/定朝が、ただの冤罪背負って消えてくだけのボンボン坊主と、仏の在り様と現世の格差に懊悩しつ成長するはずが中務の死体見て頓悟しちゃうお手軽ドラマになっちゃってるのちょっと残念。敦明親王と中務の絡みに熱量持ってかれ過ぎじゃねってゆーか。
定朝が真の仏の姿に辿り着くのが、他人の痴話喧嘩(ヒドイw)の慣れの果てってのはなんだかなぁというかw どうせそこらへん史実ではなく、澤田さんの考えた「おはなし」なんだから、芥川の地獄変の簡単な翻案みたいなメロドラマじゃなくて、宇宙意地悪クソ鳥の出ない火の鳥鳳凰編の我王と茜丸みたいな、ギンギンな隆範と定朝のぶつかり合いみたいなのやって欲しかったよねw
もっと言えば、キチガイが下らない理由付けで殺人事件起こしたら、その原因はアニメとゲームですってオタクを忌避したり、キモいから全部規制しろとかいうのも基本は同じなんよな。自分がパージラインの向こうにならないという無根拠な前提を元にしたクソ根性。清潔で平和で正しい自分たちがゆとりある生活をするためには、劣ったもの見栄えの悪いもの自分とは違うものを排斥するべしという実に人間的な感情なんよね。はぁもうブーメランの度も過ぎるって話w
というテーマはおいといて、カールと愉快な仲間達には相変わらず笑わせられたりはしてるので、今回はアサドが随分な重傷を負ってしまったけれど、重くてもまぁ、本当にエンターテイメントなのよね。でもやっぱ、そこはクライマックスの演出上ハリウッド過ぎるだろと突っ込むんだけど、カールが金槌でボコられた時はマジ笑っちゃったよ。オイ、またか!つってw
だらだらだらだらだらだら~
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
父親が師匠で超えられるぬ壁とした立ちはだかるってのも、芸事で親が自他ともに認める天才じゃなかたっとしてもフツーによくあることよね。でも、ソレを定朝の時とは違って、真正面から、河鍋暁斎のむすめ「とよ」としての絵師・河鍋暁翠の物語として書かれたってのは、読みごたえがあったと思う。あと、肝心の絵そのものについての描写みたいなのは、やっぱり弱いんよね。当たり前だけど、絵についてのバックボーン知った上で鑑賞しないとソコは「おはなし」では伝わらないと思う。これは澤田さんだけじゃなくて、今まで読んだ全般の傾向だけど。
あとね、これはもう個人のスタンスの違いでしかないから、好きか嫌いか合うか合わないかで基本平行線なんだけど、愛憎は個人の葛藤の中に生じるものだけど、絵はもっと自由なものだよ。澤田さんは、血や他者との関係に縛られた桎梏の定めって設定が大好きみたいだけど。