形式:単行本
出版社:合同出版
家庭環境や学校の状況(いじめや教師の態度)などの要素は私と違っていたが、症状が寛解後も含めてかなり似ているので、やはり場面緘黙は生まれ持った素質が大きいのかもしれない。 最後の方で場面緘黙とインターネットの相性の良さが指摘されていたが、私もネットを通して会った人との方が上手く心を開けているので、場面緘黙の支援に取り入れられそうだと思った。
私も、友達や彼氏みたいな相手に、「自分の本性知られたら即終了なんだろなー」っていつも不安に思ってた。そんで、一人でぽつんの子になんやかや世話焼くのもいつものことやわ(*´ω`*) ちなみに今は、職場での距離感に奮闘中。新しく責任者になった社員が頼りない人で、私がついついあれこれやっちゃってたんだけど、それは本人にとっても私にとってもよくないから、敢えて距離とって、自分で苦労して仕事覚えてもらわないとーって感じなうです。
鷺ちゃん、もうねこの本読みながら泣けてきた😭わかるわかる!私もそうやった!って共感するとこ多かったー。ねー。本性知られんの怖いって思うやんなぁ。鷺ちゃんは電話で2回目に話した時になんかすごく安心して自分のことも話せたけど^^*あとは夫だけかなー。安心して話せるの。親にも弟にも分かって貰えそうにないから話せないや。私はねー、新人の子に厳しくできなくてねー。その子の為には時には厳しくしなあかんねやろけど、いつも助け求められる前に見てられなくて助けちゃう。私もちょっと距離とって見守る感じでやってかななぁー。
特定の子と喋れない⇒他の子と喋ってるのが知られると悪いから他の子とも喋らない。こうして喋れない状況は作られていく。『うん』か『ううん』で返事してもらう、筆談をするといった対応は当事者には助けになる。『甘えるな』『まだやれる』こうした心の声で自分を責め立てるのは、片足もげてるのにちゃんと歩けと言っているようなもの。喋れない自分も"自分の一部である"ということを深いところで認めることにより、心は少し軽くなったようだ。最終的に前向きに受け止められるようになったのは救いだ。
ほーしたら……遠くからその2人が「喋った!」「喋ったで!」とコソコソ、こちらを指さしながら話していて、その日幼稚園では「あのシルクちゃんが喋った」と、そのことで話題が持ちきりだったらしい――本人だけがあずかり知らぬところで。家に帰ると、自分は母親に対して、「今日〇〇先生がどーした」「幼稚園からのお知らせがどーの」と、その日あったことを逐一報告する子であった。それで「プリント要らず」と母親に呼ばれていた。だから、幼稚園から「おたくのお子さん喋りません」と言われた時、母親は「嘘ぉ?!」と信じがたかったらしい。
今から振り返ると、はっきりと「緘黙」と呼ばれる状態だったのだな。不思議というか興味深いというか、幼いながらもその心の中には、自分のその状態に関する「理(ことわり)」のようなものがあったと思う。外側からは、「変わった子」「なんで話さへんの?」なんでしょう。けど幼い自分の内側では「言葉というものは、相手からアクションがあった場合、それに対して発するもの」であった。つまりその頃、家族以外の人間に対しては、自分から話しかける、遊ぶに誘う等、働きかけていくことは自分の世界に選択肢として存在しなかったのだ。
著者のモリナガアメさんには、読んだ人が「自分も場面緘黙だったんだ」と気づける、「自分のことを分かってくれる人がいる」と安心できる、「しんどいけど勇気をもらえた!」となるような、そんなマンガをこれからも描いて欲しいです。 欲を言えば、対象年齢を小学生、中学生、高校生と下げて描いて欲しい。 いや、うーん、この本でも、小学校の高学年ならギリギリ読めるか? 読めるのか? マンガだしな?
温かいコメントありがとうございます? 「繋がるひとときが大切なひととき」 良い言葉ですね。あらためて心に刻みます。
>陽子さん ありがとうございます(_ _)陽子さんと出会う誰かが、ふとした時に陽子さんと過ごしたほんのひと時が、何かの時に背中を押すようなひとときになっていればなと。もちろん、私自身も出会う誰かにとって、何かを変えなくてもいいから、少しだけでも背中を押せたり、踏ん張れたり…そんな大切なひとときであればいいなと思ってます(^ー^
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