形式:新書
出版社:光文社
オイディウスの作品(『恋愛指南』)によく表れている。◆キリスト教
アガペー的な愛とエロス的な愛、つまりは神の精神的で肉欲を離れた愛と、肉欲に由来する愛があると言う事。そしてキリスト教は定期的なものを一切排除したいと言う思惑だった。中世宮廷恋愛は、吟遊詩人が恋物語を話し、娯楽を提供したが、根幹は肉体よりも精神が大事という価値観だ。性欲を超えたところにある神と人間の間の愛が大事であり、身分違いの異性愛など騎士道恋愛に関わる部分が非常に多かった。それは忠実さ、裏切りに対する嫌悪、理性、知性などの心を高貴にするものとなった。口説くことは、肉欲を理性的に制御し、いかに徳を備えて
いかに徳を備えているか手腕を見せる理性的な論証だ。浪漫主義時代ではロミオとジュリエットなど、肉欲が爆発し、恋人が破滅するようなストーリーが増えるが、それは同時に職業選択権のない人生を自ら切り開くと言う個人主義の発達を促した。 こうした西洋の恋愛文化史を明治に輸入した日本で初めて色恋ではない崇高な恋愛が作られたが、個人主義は相入れない。甘えと言う相互依存の関係から自我の打ち立てを試みている。このロマンティックラブ特有の自閉空間は村上春樹が描く一方で、そもそも主体はないというポストモダンの考え方が生まれた。
高校生ぐらいの自我が芽生える時期に、評論を読んだり、とくに翻訳書の類を読んだり、哲学の端っこに触れる中で、「個人」の概念を発見していった感覚があり、なぜそれが日本ではあまりにも浸透していないのか、実践に到ることができないのか、だから民主主義も個人と個人の対等な人間関係もあったもんじゃない、と気がついて憤ったというか、天と地がひっくり返ったのを思い出す。そういうわけなので、思考そのものを規定する西洋と日本の違いのような部分についてはかなり実感を伴って読むことができた。
これはおもしろそう。日本はこの世界でもガラパゴスなんですね。
karutarotonさん、コメントありがとうございます!そうみたいですね。遠藤周作の『沈黙』でフェレイラが、「この国は沼地だ」と語るくだりがありますが、そこで描写されるキリスト教の変容の仕方と似ていると思いました。日本人は、外国から輸入したものを独自の価値観で噛み砕いて、結果別物にしてしまうのが上手い国民性を持つのかもしれませんね。
というかこの論でいくと一時期流行していた個性尊重教育だの「自分探し」だのもお笑い草ってことだよね?だって日本には西欧的な「自我」が無い、つまり自己を確立すらできていない(しその必要すら感じていない)んだから!なんでも西欧の価値観やイデオロギーを移植すりゃいいってもんじゃないんだな。
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オイディウスの作品(『恋愛指南』)によく表れている。◆キリスト教