形式:新書
出版社:中央公論新社
ウェーバーの近代観を肯定的にみる「大塚久雄パラダイム」が日本におけるウェーバー理解のベースになっていたようだ。大塚は「社会主義革命に先立つブルジョア革命」という文脈(講座派)で、マルクスとウェーバーを共に受け入れる考え方を説いた。その後、山之内靖らがウェーバーとニーチェの親近性に注目し、近代観を肯定的にみる大塚のパラダイムを批判したという流れがあるようだ。確かにウェーバーを「求道者」と見立てるのは少しピュアな受容だとも現在では思ってしまう。(→続く)
それら日本でのウェーバー受容の流れはかなりの独自的な展開であったようだ。そもそも、ドイツでは「大塚久雄パラダイム」はなく、当初からニーチェとの繋がりも意識されていた。更には、ドイツでは「なぜ日本で、それほどまでに熱心にウェーバーが読まれているのか?」という研究さえ存在している。これはとても面白い研究テーマだと思う。かつて夏目漱石が指摘した、外発的たらざるを得なかった日本の近代化のように、日本の社会科学も外発的たらざるを得ず、近代化理解における「求道者」をウェーバーに求めた顕れだったということだろうか。
あ、すまん、世間が切断させて理解してるってことでした。
そういう意味ね、それは本当にそうだわ
心を病んだ末の自己分析としてのプロテスタンティズムの研究という観点も面白い。 ただ合間合間に挟まれる床屋政談は蛇足の気がある。日本の遅れを近代ヨーロッパとの対比の上で問うというカビの生えた日本的受容をリバイバルすることを意図しているのか、ウェーバーの思想を身近に理解してもらうためにあえて卑俗な現代政治に引きつけているのか、それとも現代政治の問題を糾弾するためにウェーバーのテキストを曲解しているのか。どうもよくわからない。筆者と波長が合う人にはオススメ。
東洋と西洋を比較することによって西洋の優位を見てきた近代的価値観を問い直すことは、近代的価値観そのものが揺らいでいる今だからこそ必要だと言うのが著者の考えだ。また、ウェーバーに批判的だった思想家としてアーレントについても書かれていた。とは言いながら、組織の歯車に過ぎなかったと自己弁護したアイヒマンの官僚的な思考はウェーバーの有名なメタファー「鉄の檻」であって、二人はその点で認識を共通していると論じている。なるほどと思った。
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