移動し、そこで知識を交換し合い、協同組合的な組織を形成していった。大学はその出自からして移動の自由を有しており、都市支配層や皇帝、教皇といった権力の網の目をくぐり、利用しながら発展していった。こうした大学の在り方はパリ大学よりも前、北イタリアのボローニャで始まっていた。そこでは、都市の人々から異邦人である自分たちを守る互助組織を結成するようになった。それが協同団体としてのユニバーシティだった。そんな中世の大学だが、その知を規定していたのはイスラム圏から輸入されたアリストテレスの思想だった。12世紀以降の
アリストテレス革命がもたらした大学の知のあり方の特徴は画一性であったという。ヨーロッパどこの大学に行っても同じような教え方がなされていた。パリ大学とボローニャ大学という二代巨頭のもと欧州で増幅した大学は、しかし教会との関係に悩まされていたという。神学部には托鉢修道士が多く教員としていたのだが、彼らは教会に忠誠を誓っており、あわよくば学生の中から信徒を獲得できればいいとさえ思っており、教会も同様の意向だった。そのため、教員団と一致した行動を取らず(学生に謝礼金を要求しない、ストに不参加)、大学から煙たがられ
ていた。そして教皇の側もその問題を黙認していた。この流れは止まらず、神学部は教会と持ちつ持たれつの関係になると共に、学芸学部は神学部に対抗し大学の教会からの独立を守ろうとしたという。しかしそんな中世の大学も、次第に領邦君主の支配下に入り、官僚制化していった。宗教改革の波の中、プロテスタントとカトリックに領邦が二分される中、君主たちは張り合うため、知的ブランドを高めるために大学を乱立するようになった。こうしてかつては移動の自由の中自治的なあり方を志向しそれなりの力を持った大学も、領邦君主の管理下のエリート
養成機関と堕し、君主の衰退に伴い消えていったという。2章でその衰退と近代的大学の勃興が論じられる。中世の大学が衰退したのちにまず近代の知の基盤となったのは印刷術の登場に伴う出版界の興隆であった。出版についても、大学と同様に知のネットワークを形成したが、大学の主役が学生であったのに対し、出版の時代にあっては、多くの読者がそれを支えた。かつて大学は移動の自由と切り離せないもので、本を求めて移動を繰り返したりもしていたが、印刷術の発展により都市間移動をしない人々が簡単に本を入手できるようになった。またこれと並行
し、アリストテレスを信奉しスコラ哲学に固執する旧来的な「大学」と差異化を図り新たな知を広める拠点として17,18世紀頃「アカデミー」を設立し出した。保守的な大学と革新的なアカデミーという構図だった。このように、出版の興隆とアカデミーの登場で瀕死の状態だった大学が再び盛り返すのは19世紀のドイツにおいてであった。フランス革命、ナポレオンに対する軍事的敗北から、フランスと対抗する機運が高まっていた。フランスにおいてアカデミーが興隆しているため、ドイツでは教育と研究を一致させるフンボルト理念のもと大学を作り、
フランスに対抗できる次世代の人間を育てようという政治的な動きがあった。つまり2度目の大学の誕生はナショナリズムの申し子だったのだ。そしてこのドイツ型の近代的大学は、20世紀にアメリカに広まり、専門学校やアカデミーを飲み込んで世界の大学のスタンダードとなっていく。なので現在の大学の直接の起源はここですね。3章では日本における大学の誕生が触れられる。日本における大学の発展は、基本的に近代のドイツ型に近い。それは、啓蒙主義的なナショナリズムのもと、西洋列強に対抗すべく西洋の知をひたすら翻訳するというあり方で
あったという。こうした潮流の中、よく知られるように緒方洪庵や福澤諭吉らの私塾(洋学塾)が発展した。大阪や江戸を中心に洋学を学ぶ知識人たちのネットワークがあり、それがナショナリズムを内包しつつ私学へと発展していった。こうした伝統の中で、私学は自由民権運動を結びついていく。では官学の方はというとまずは東大である。ここでいう「大学」はユニバーシティを訳すというより、古代律令制における「大学」からとったらしい。王政復古の一連の改革の一環ということらしい。面白かったのは東大ができる際に、かつての大学本校が廃止され、
南校と東校が合併した東大になったという話で、大学本校において儒学と国学の勢力が争い合っていたため、政府によって廃止されてしまったという。このことにより、東大における学知のあり方の西洋化という帰結をもたらした。ただ明治期において、日本の学問をリードしたのは私学でも東大でもなかった。それは官立専門学校だった。明治政府は、一刻も早く近代化を進めるために人材育成を急いでいたが、初等教育からやっていたのでは埒があかない。なので職がない旧士族らが主に学生となり官立専門学校で育成が行われた。その後1886年の帝国大学令
を機に大学のあり方が変わる。個人的に社会学的に面白いと思ったのは、当時の帝大事情として、東京帝大では法律系ジェネラリスト養成に力点が置かれ、周辺部の東北帝大などでは理工系テクノクラート養成、植民地の帝大では両方が重視されていたという話。これは日本の中心では統治、管理の術としての法律を学ぶ人材を育て、周辺部では「開発」のための人材育成をする、植民地ではその両方を狙うという国家の思惑が反映されていたかららしい。なるほど。次は私学と官学、出版の関係について。160pに分かりやすいまとめがあるが、まず幕末知識人
たちのネットワークの結節点としての私学があり、それが自由民権運動に結びついていくことに対する恐れ、対抗策として帝大という知のネットワークの構築があった。私学の興隆を支えていたのが出版だった。当時は「天皇の知=帝大」vs「民権の知=私学、出版・新聞」という二項図式があった。ただこの図式は次第に相互浸透的に不明瞭になっていく。それは帝大知識人(吉野作造)と結び付き勢力を拡大していった中央公論や、大学人と結び付き教養読者層を掘り起こしていった岩波書店が典型である。こうして大学と出版業界は束の間の蜜月を迎えたのだ
が、大正デモクラシーが終わるとそれも終わり、自由な言論の汽水域としての出版における大学人の発言はすくなっていキ、帝大は国家に奉仕する大学へと逆戻りしていったという。4章では戦後の大学のあり方と大学改革について。占領期の大学改革の最大の目玉は帝大、大学、専門学校、旧制高校など多数ある高等教育機関の「大学」への一元化だった。そんな中私学が爆発的に増加するのだが、その先に怒ったのが大学闘争だった。東大闘争、日大闘争の2つが象徴的だが、前者が理工系の研究体制やキャリアパスの不備を問題にしたのに対し、後者は私学の
利益第一主義とそれによる学生数増加に伴う教育の劣化への抗議だった。戦後、日本において私学は文系の受け皿としてひたすら学生数を増やし利益をひたすら追求した。悪名高いマスプロ教育。一方で国立大においては理工系の発展が進んだ。学園紛争ののち、束の間の平和が訪れるが、その後、大学改革の嵐がやってくる。面白いのは、大学院重点化政策が完全に失敗だったという点。大学院修了者の社会的需要の程度や分野ごとに異なるキャリアパスなどを殆ど考慮せず、(工学系の高学歴人材を抱え産業の高度化を図りたい)産業界の要望に応える形で無闇に
院生を増やしていった結果、大学院の教育の質の低下、ポスドク増加などの社会問題を生み出していった。終章では筆者の理想の大学のあり方が語られる。それはグローバル化の現在、今の大学の起源であるドイツ型の国民国家型大学ではなく、むしろ移動と普遍性を兼ね備えたトランスナショナルな中世型の大学を参考に大学の知のあり方を構想すべきではないかと。さらに中世の「自由学芸」のように諸学を総合する知としての教養を再興すべきという議論もあった。まあ面白い話だが、理念的すぎてピンとこない。ここ最近出たという続編もいつか読みたい。
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移動し、そこで知識を交換し合い、協同組合的な組織を形成していった。大学はその出自からして移動の自由を有しており、都市支配層や皇帝、教皇といった権力の網の目をくぐり、利用しながら発展していった。こうした大学の在り方はパリ大学よりも前、北イタリアのボローニャで始まっていた。そこでは、都市の人々から異邦人である自分たちを守る互助組織を結成するようになった。それが協同団体としてのユニバーシティだった。そんな中世の大学だが、その知を規定していたのはイスラム圏から輸入されたアリストテレスの思想だった。12世紀以降の
アリストテレス革命がもたらした大学の知のあり方の特徴は画一性であったという。ヨーロッパどこの大学に行っても同じような教え方がなされていた。パリ大学とボローニャ大学という二代巨頭のもと欧州で増幅した大学は、しかし教会との関係に悩まされていたという。神学部には托鉢修道士が多く教員としていたのだが、彼らは教会に忠誠を誓っており、あわよくば学生の中から信徒を獲得できればいいとさえ思っており、教会も同様の意向だった。そのため、教員団と一致した行動を取らず(学生に謝礼金を要求しない、ストに不参加)、大学から煙たがられ
ていた。そして教皇の側もその問題を黙認していた。この流れは止まらず、神学部は教会と持ちつ持たれつの関係になると共に、学芸学部は神学部に対抗し大学の教会からの独立を守ろうとしたという。しかしそんな中世の大学も、次第に領邦君主の支配下に入り、官僚制化していった。宗教改革の波の中、プロテスタントとカトリックに領邦が二分される中、君主たちは張り合うため、知的ブランドを高めるために大学を乱立するようになった。こうしてかつては移動の自由の中自治的なあり方を志向しそれなりの力を持った大学も、領邦君主の管理下のエリート
養成機関と堕し、君主の衰退に伴い消えていったという。2章でその衰退と近代的大学の勃興が論じられる。中世の大学が衰退したのちにまず近代の知の基盤となったのは印刷術の登場に伴う出版界の興隆であった。出版についても、大学と同様に知のネットワークを形成したが、大学の主役が学生であったのに対し、出版の時代にあっては、多くの読者がそれを支えた。かつて大学は移動の自由と切り離せないもので、本を求めて移動を繰り返したりもしていたが、印刷術の発展により都市間移動をしない人々が簡単に本を入手できるようになった。またこれと並行
し、アリストテレスを信奉しスコラ哲学に固執する旧来的な「大学」と差異化を図り新たな知を広める拠点として17,18世紀頃「アカデミー」を設立し出した。保守的な大学と革新的なアカデミーという構図だった。このように、出版の興隆とアカデミーの登場で瀕死の状態だった大学が再び盛り返すのは19世紀のドイツにおいてであった。フランス革命、ナポレオンに対する軍事的敗北から、フランスと対抗する機運が高まっていた。フランスにおいてアカデミーが興隆しているため、ドイツでは教育と研究を一致させるフンボルト理念のもと大学を作り、
フランスに対抗できる次世代の人間を育てようという政治的な動きがあった。つまり2度目の大学の誕生はナショナリズムの申し子だったのだ。そしてこのドイツ型の近代的大学は、20世紀にアメリカに広まり、専門学校やアカデミーを飲み込んで世界の大学のスタンダードとなっていく。なので現在の大学の直接の起源はここですね。3章では日本における大学の誕生が触れられる。日本における大学の発展は、基本的に近代のドイツ型に近い。それは、啓蒙主義的なナショナリズムのもと、西洋列強に対抗すべく西洋の知をひたすら翻訳するというあり方で
あったという。こうした潮流の中、よく知られるように緒方洪庵や福澤諭吉らの私塾(洋学塾)が発展した。大阪や江戸を中心に洋学を学ぶ知識人たちのネットワークがあり、それがナショナリズムを内包しつつ私学へと発展していった。こうした伝統の中で、私学は自由民権運動を結びついていく。では官学の方はというとまずは東大である。ここでいう「大学」はユニバーシティを訳すというより、古代律令制における「大学」からとったらしい。王政復古の一連の改革の一環ということらしい。面白かったのは東大ができる際に、かつての大学本校が廃止され、
南校と東校が合併した東大になったという話で、大学本校において儒学と国学の勢力が争い合っていたため、政府によって廃止されてしまったという。このことにより、東大における学知のあり方の西洋化という帰結をもたらした。ただ明治期において、日本の学問をリードしたのは私学でも東大でもなかった。それは官立専門学校だった。明治政府は、一刻も早く近代化を進めるために人材育成を急いでいたが、初等教育からやっていたのでは埒があかない。なので職がない旧士族らが主に学生となり官立専門学校で育成が行われた。その後1886年の帝国大学令
を機に大学のあり方が変わる。個人的に社会学的に面白いと思ったのは、当時の帝大事情として、東京帝大では法律系ジェネラリスト養成に力点が置かれ、周辺部の東北帝大などでは理工系テクノクラート養成、植民地の帝大では両方が重視されていたという話。これは日本の中心では統治、管理の術としての法律を学ぶ人材を育て、周辺部では「開発」のための人材育成をする、植民地ではその両方を狙うという国家の思惑が反映されていたかららしい。なるほど。次は私学と官学、出版の関係について。160pに分かりやすいまとめがあるが、まず幕末知識人
たちのネットワークの結節点としての私学があり、それが自由民権運動に結びついていくことに対する恐れ、対抗策として帝大という知のネットワークの構築があった。私学の興隆を支えていたのが出版だった。当時は「天皇の知=帝大」vs「民権の知=私学、出版・新聞」という二項図式があった。ただこの図式は次第に相互浸透的に不明瞭になっていく。それは帝大知識人(吉野作造)と結び付き勢力を拡大していった中央公論や、大学人と結び付き教養読者層を掘り起こしていった岩波書店が典型である。こうして大学と出版業界は束の間の蜜月を迎えたのだ
が、大正デモクラシーが終わるとそれも終わり、自由な言論の汽水域としての出版における大学人の発言はすくなっていキ、帝大は国家に奉仕する大学へと逆戻りしていったという。4章では戦後の大学のあり方と大学改革について。占領期の大学改革の最大の目玉は帝大、大学、専門学校、旧制高校など多数ある高等教育機関の「大学」への一元化だった。そんな中私学が爆発的に増加するのだが、その先に怒ったのが大学闘争だった。東大闘争、日大闘争の2つが象徴的だが、前者が理工系の研究体制やキャリアパスの不備を問題にしたのに対し、後者は私学の
利益第一主義とそれによる学生数増加に伴う教育の劣化への抗議だった。戦後、日本において私学は文系の受け皿としてひたすら学生数を増やし利益をひたすら追求した。悪名高いマスプロ教育。一方で国立大においては理工系の発展が進んだ。学園紛争ののち、束の間の平和が訪れるが、その後、大学改革の嵐がやってくる。面白いのは、大学院重点化政策が完全に失敗だったという点。大学院修了者の社会的需要の程度や分野ごとに異なるキャリアパスなどを殆ど考慮せず、(工学系の高学歴人材を抱え産業の高度化を図りたい)産業界の要望に応える形で無闇に
院生を増やしていった結果、大学院の教育の質の低下、ポスドク増加などの社会問題を生み出していった。終章では筆者の理想の大学のあり方が語られる。それはグローバル化の現在、今の大学の起源であるドイツ型の国民国家型大学ではなく、むしろ移動と普遍性を兼ね備えたトランスナショナルな中世型の大学を参考に大学の知のあり方を構想すべきではないかと。さらに中世の「自由学芸」のように諸学を総合する知としての教養を再興すべきという議論もあった。まあ面白い話だが、理念的すぎてピンとこない。ここ最近出たという続編もいつか読みたい。