「本質的には、スターリンはその戦略的地勢から、すでにポドカルパツカー・ルスがソヴェト同盟へ帰属せねばならないと決定していた。彼の論法は単純だった。この地域の支配は、未来のソヴェト軍の、カルパチア山脈を通ることのない初めてのドナウ川流域への直接のアクセスを可能にするからである」(P. R. Magocsi, “With Their Backs to the Mountains”, Central European University Press, 2017, p. 294)
「東ヨーロッパ諸国はソヴェト同盟を、交換可能通貨が使われる輸出市場で売ることなど試みさえしなかった粗悪品(低品質で時代遅れの衣服、履物、織物、革の服、調度品)のゴミ捨て場として利用していた」(S. Kotkin, “Uncivil society: 1989 and the implosion of the communist establishment”, Modern Library, 2009, p. 28)。
「歴史の長きにわたり、ポーランドは常に、ロシアを攻撃しようとする敵が通り抜ける回廊だった。……なぜ敵たちは今までたやすくポーランドを通過してきたのか? 何よりもまず、ポーランドが弱体だったからだ。……ポーランド問題は、ソヴェト国家の死活問題だ」(Крымская конференция. 4–11 февраля 1945 г. Запись заседания глав правительств, 6 февраля 1945 г., 16 час., Ливадийский дворец)
注104頁で触れられているС. Г. Осьмачкоというロシアの研究者も、最近«Сталинизм (1929-1945 гг.)»という本を書いたらしい人である。ヤロスラヴリの出版社らしいが、日ソとかの品目リストにも載ってねえ。いつ俺は入手できるのかねえ。モンゴル関連では、ノモンハン事件に関する著作も書かれたそうで、その著作は「負の側面について興味深い事実を多数発掘している」らしい。読みてえ。早くプーチンはウクライナから手を引いてどっかに消えろ。
モンゴルへの「外国資本排除」(p. 62)は、「他国に経済的に従属しない」というソ連の政策と通底している気がする。「反帝国主義」とソ連の一国的な利益が結びついているというのは、スターリン路線の体現ではないだろうか。ソ連にとってモンゴルとは「非資本主義的」発展の「実験場」でもあったそうで(p. 165)、この辺日本にとっての満洲国とかを思わせ、またスターリンが「地理的な位置だけが理由で、ソ連にとって大きな役割を果たしている」(p. 432)と言っていたのは、カルパチア・ルーシの処遇を思わせる。
「本質的には、スターリンはその戦略的地勢から、すでにポドカルパツカー・ルスがソヴェト同盟へ帰属せねばならないと決定していた。彼の論法は単純だった。この地域の支配は、未来のソヴェト軍の、カルパチア山脈を通ることのない初めてのドナウ川流域への直接のアクセスを可能にするからである」(P. R. Magocsi, “With Their Backs to the Mountains”, Central European University Press, 2017, p. 294)
スターリン的には、モンゴルは「第一次世界大戦時同様」(p. 136)資源供給基地でもあったようで、食糧輸送のための鉄道敷設などはかなり細かく援助していたらしい。1930年代初頭の飢餓の時期にもモンゴルへの小麦輸出は優先されていた(p. 159)というのは驚く。1930年代にはモンゴルへの支出が赤字になった(p. 447)というのも、ソ連が冷戦中に東欧圏の西側で売れない商品を自分で買い取っていたという話を思い出さなくもない。コトキンがモンゴルを東欧圏の「雛型」と言っていたのは間違いないように思われる。
「東ヨーロッパ諸国はソヴェト同盟を、交換可能通貨が使われる輸出市場で売ることなど試みさえしなかった粗悪品(低品質で時代遅れの衣服、履物、織物、革の服、調度品)のゴミ捨て場として利用していた」(S. Kotkin, “Uncivil society: 1989 and the implosion of the communist establishment”, Modern Library, 2009, p. 28)。
「〔白軍の〕フォン・ウンゲルン=シュテルンベルクの貢献とは、モンゴルの独立と、彼の敗北後に赤軍が駐留した、最初の──第二次世界大戦後の東欧の、はるか以前の──ソヴェト衛星国の創設だった」(S. Kotkin, “Stalin: Paradoxes of power, 1878-1928”, Penguin Press, 2014, p. 404)。「強いモンゴルを作れ」というスターリンの要求も(p. 269)、クリミア会談での「〔ソ連の盾になれる〕強いポーランドを望む」という発言が思い出される。
「歴史の長きにわたり、ポーランドは常に、ロシアを攻撃しようとする敵が通り抜ける回廊だった。……なぜ敵たちは今までたやすくポーランドを通過してきたのか? 何よりもまず、ポーランドが弱体だったからだ。……ポーランド問題は、ソヴェト国家の死活問題だ」(Крымская конференция. 4–11 февраля 1945 г. Запись заседания глав правительств, 6 февраля 1945 г., 16 час., Ливадийский дворец)
チョイバルサンの「我々の革命的な達成が増大し強化されていくにつれ、敵の陰謀は減っていくどころか強まっている」(p. 351)という発言は、スターリンの「階級闘争激化論」を連想させる。まあパクったんだろう。モンゴル国内が段々と恐怖政治へと傾いていった過程には、スターリンの地位の確立と軌を一にしているようだ。この辺も戦後のハンガリーとかでしばらくは複数政党制だったのが、冷戦が強まってくるにつれ共産党が全部を仕切るようになっていったという話を思い出す。どうやらモンゴルは相当に東欧圏の前例と言えるようである。
「当局の関与を強く疑わせる」(p. 347)モンゴルの国防相デミドの死体をモスクワに運んでの火葬処分や、スターリンがまたモンゴル側にモンゴルに携わったソ連のスタッフを始末したことを隠そうとしたこと(p. 354)なども触れられている。ゲンデンとの対談の速記録では、ソ連においては政治局が特定のターゲットに対しては超法規的に死刑を適用していたことを認める旨を削るような指示もしていたらしい(p. 266)。まあトゥハチェフスキーは明らかに謀殺されたわけだし、「産業党事件」という捏造ももうやってた訳だからな。
要するにスターリンは自分が何をやってるか知っていたし、ソ連が法治国家ではないことも承知していたのだ。モンゴル国内でも逮捕された人々の77%が銃殺されたそうで、「この時期の弾圧の強さを物語っている」(p. 377)。スターリン時代、まあ何とも評価しにくいが、少なくとも俺は「褒める」奴の気が知れねえ。なおゲンデン対談では、スターリンは「〔ラマ僧たちは〕あなたにおもねる」という文章を「孤立し、弱体化する」と書き換えたりしており(p. 260)、上品な文章に見えるよう気を配っていたようである。涙ぐましい努力だ。
注104頁で触れられているС. Г. Осьмачкоというロシアの研究者も、最近«Сталинизм (1929-1945 гг.)»という本を書いたらしい人である。ヤロスラヴリの出版社らしいが、日ソとかの品目リストにも載ってねえ。いつ俺は入手できるのかねえ。モンゴル関連では、ノモンハン事件に関する著作も書かれたそうで、その著作は「負の側面について興味深い事実を多数発掘している」らしい。読みてえ。早くプーチンはウクライナから手を引いてどっかに消えろ。
本の内容とは直接関係がないが、ソ連の幹部には様々な苗字が存在すると改めて認識させられる。ユダヤ人ではカーメネフ(ローゼンフェリト)、ソコーリニコフ(ブリリアーント)、アルメニア人のダヴィードフ(ダヴチャン)、クヴィリングはドイツ人、ギリシア人のカンデラリ、シュメラルはチェコ人。ラトヴィア人とドイツ人の混血なのに「ウクライナ人」と名乗っていたメジラウクなんて人もいる。確かにソ連には「諸民族の友好」のような側面もあったのかもしれない。問題は今名前を挙げた人はシュメラル以外全員処刑されているということである。
「モンゴル問題に携わったソ連のスタッフの経歴をできるだけ明らかにしようと努めたが、かなりの部分がこの時期〔大テロル〕に姿を消していることに改めて気づかされる」(p. 376)。元々恨みを持っていた相手にスパイの濡れ衣を着せて(p. 215)、拷問で自白を引き出した(p. 221)みたいな話もある。最近の某国の変な住民投票とかを連想しなくもない。1939年のポーランド東部併合に際しての住民投票は、今後は「一定の支持があった」ではなく、民主制を装った独裁国家の強権的な手法の前例としてのみ思い出されるであろう。
寺山先生ご自身の以前の著作において、スターリンの義弟アレクサンドル・スヴァニーゼの経歴に誤りがあった(注57頁)とか、違和感を覚えられていた日付を修正する(注61頁)など、堂々と情報を更新されている。研究者の姿勢とは斯くあるものと感嘆させられる。モンゴル側がビンバーという人物を「日本と接触させるべく放った」という説を巡る議論も紹介されており(p. 366)、さらなる議論が進むことが期待される。重厚な著作を世に送り出してくださった寺山先生に満腔の謝意を表したい。
モンゴル政府との対談で、スターリンの人が「これ〔ラマ僧院〕は国家の中の国家です。チンギスハンはそんなことを許すはずがありません。彼ならばこの連中を皆殺しにするでしょう」(p. 225)とお坊さんたちの排除を訴えていたとの旨が指摘されている。一体スターリンがどれくらいモンゴル皇帝について知っていたのかはわからんが、トゥヴァ語はトルコ系の言語なのか(p. 231)とか、ポーランド騎兵を差す«уланы»もモンゴル語起源ではないかとか喋っている。この辺は彼の民族問題人民委員の名残のようなものを感じなくもない。