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読んだ本
1443

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2024/04/26(700日経過)
記録初日
2024/04/26(700日経過)
読んだ本
1443冊(1日平均2.06冊)
読んだページ
440683ページ(1日平均629ページ)
感想・レビュー
1443件(投稿率100.0%)
本棚
1棚
性別
年齢
22歳
血液型
A型
職業
大学生
現住所
滋賀県
自己紹介

短編小説【ジャンル:SF】

『量子の彼方で眠るもの』

第一章 シュレディンガーの囁き

僕が彼女と出会ったのは、五次元通信の実験室だった。

深夜の研究棟は、巨大な墓標のように静まり返っていた。
唯一の住人である冷却装置だけが、重苦しい低音を唸らせ、凍てつく空気を吐き出している。

机の上では、量子ビットの状態を示すモニターが、死者の脈動のような淡い光を放っていた。

僕の夢は、宇宙の観測問題を解き明かすことだった。

「観測」とは何か。
なぜ世界は、誰かに見られることで初めて「確定」するのか。

その謎の輪郭を掴むことができれば、この宇宙の仕組みは半分、僕らの手に落ちる。

——物理なんて、現実の役には立たない。

父が吐き捨てた言葉だった。

心の底には、今も澱のように沈んでいる。

あの時の焼けつくような悔しさ。それを消し去るために、僕は証明したかった。僕らが見ているこの世界の、真実の肌触りを。

もしこの実験が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。

崖っぷちの絶望に背中を押されながら、僕は装置の前に立ち続けていた。

机の端には、妹から贈られた古い万年筆が転がっている。試験に合格した日の、誇らしげな彼女の笑顔。それを守り刀のように見つめるたび、僕は自分がここまで歩んできた理由を、かろうじて繋ぎ止めることができた。

そのときだった。

「この宇宙は、無限に分岐している」

背後から届いた声は、静かだが、鼓膜に直接刻まれるような透明感を持っていた。

振り向くと、そこに彼女がいた。

白衣を羽織った、見知らぬ女性。
実験室の無機質な白い光を吸い込んで、彼女の長い黒髪が夜の淵のように揺れている。

「観測という引き金を引くたびに、世界は枝分かれしていく。私たちは、数え切れないほどの可能性という枝の、その中の一本をなぞっているだけに過ぎない」

彼女の微笑みは、ひどく懐かしく、そして脊髄が凍るほどに恐ろしかった。

「君は……誰だ?」

掠れた声で問う僕に、彼女はあどけなく首をかしげて見せた。

「アマリリス・シュレディンガー」

冗談のような名前だった。
けれど、彼女の瞳は冗談を拒絶するほどに静謐で、底知れない。

その双眸には、宇宙の奥行きそのものが、濃密な闇となって封じ込められていた。

僕の名は相澤凛久。
二十五歳。大学で理論物理を学びながら、量子情報転送の研究をしている。

量子重ね合わせ、多世界解釈、観測問題……。
理論なら、人並み以上に血肉化してきた自負があった。

けれど、目の前の彼女という「現象」は、僕の積み上げてきた知性を、いとも容易く蹂躙していく。

「君は……どこから来たんだ?」

震える指先で問う。
彼女は、ただ優しく、残酷に笑った。

「私は、ここにいるし、いないわ」

その声は不思議だった。確かに鼓膜を震わせているのに、物理的な距離など意味をなさない、遥か彼方から届くような響きがある。

「この世界はね」

彼女は静謐な足取りで研究室を歩き、冷たい実験装置の金属に指先を触れた。

「あなたたちが確信しているほど、堅牢なものじゃないの」

モニターに表示された量子状態のグラフが、ふっと幽かに揺れた気がした。

「世界は観測によって形を定義される。観測者がいなければ、宇宙はただの不確定な可能性に過ぎない」

彼女がゆっくりとこちらを振り向いた。

その瞬間、僕は息を呑んで硬直した。

彼女の瞳の奥、黒の深淵に、無数の光がまたたいていたからだ。
散りばめられた星のようでもあり、素粒子の軌跡のようにも見える、名もなき光の群れ。

「あなたはもう、観測者じゃない」

心臓が強く跳ねた。

観測者じゃない?
それはどういう意味だ。

視界が、ずれる。

机の位置。
モニターの冷たい光。
彼女の立ち方。

すべてが、決定的な違和感を持って配置し直されていた。

僕は机をつかもうとした。

だが——

指が、空を切り、デスクをすり抜けた。

「どうして……」

声が震える。

アマリリスは静かに言った。

「あなたはもう、観測する側ではないから」

背筋に氷のようなものが走る。

「あなたは、“観測される側”になった。この宇宙における、一つの現象へと堕ちたのよ」

そのとき。

視界の端で、何かが動いた。

研究室の廊下。ガラス越しに、誰かが歩いている。

——僕だ。

廊下の向こうから、僕ではないもう一人の僕が歩いてきた。

その瞬間、僕は理解した。

ここは、僕が知っている宇宙じゃない。

アマリリスが囁く。

「ようこそ、分岐点へ」


第二章 量子幽霊

目の前のアマリリスの姿が、不意に陽炎のように揺れた。
空気に溶け出すように輪郭がぼやけ、まるで存在がまだ確定していない量子のように揺らいでいる。

僕は息をのんだ。

「……僕が、観測者じゃない。どういう意味だ」

彼女は静かに僕を見つめた。その瞳は深く、どこまでも落ちていきそうなほど暗い。

「あなたはもう、この宇宙の“基底状態”には存在していないの」

言葉の意味がすぐには脳に届かない。
僕は動揺しながら自分の手を見た。そこにあるはずの肉体。けれど、何かがおかしい。決定的な何かが欠落している。

重さがない。
空気に触れているはずの皮膚感覚が、恐ろしいほどに薄い。

自分の身体が、世界から半歩だけ位相をずらされている。
そんな奇妙な感覚だった。

「これは……」

恐る恐る、僕は机の表面に指を伸ばした。

指先は確かに机に届いた。だが、届いたという物理的な実感が、脳に伝わってこない。

凍りつく僕を前に、アマリリスは落ち着いた声で告げた。

「あなたは今、存在と非存在の狭間にいる」

まるで日常の風景を語るかのように、その声は冷静だった。

「そんなはずない!」

思わず声が荒くなる。

「僕はここにいる。見えているだろう?」

その瞬間だった。

彼女がゆっくりと手をかざす。

直後、僕の腕の一部が、ふっと透けた。

光の中で分子がほどけていくように、輪郭が霧散する。心臓が跳ねた。

「……なにしてる、アマリリス」

声が震えた。
自分の腕を見つめる。肉体という実体を失い、陽炎のように揺らぐ異物。

「……僕、消えるのか?」

アマリリスは首を横に振った。

「違うわ」

彼女は静かに、決定的な一言を口にした。

「あなたは幽霊になったわけじゃない。……あなたは、“観測される側”になったの」

意味が理解できない。
ただ彼女の深い瞳を見つめることしかできなかった。

彼女は、僕の理解が追いつくのを待つように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「これまでのあなたは、世界を見ていた」

「観測者として、あなたは宇宙を外側から俯瞰する立場だった」

アマリリスは言葉を続ける。

「でも、今は違う」

彼女が一歩、僕との距離を詰める。その気配が、ひどく現実離れして感じられた。

「あなたは今、宇宙の中に取り込まれた。ただの『現象』になったのよ」

胸の奥が、冷たいノイズにざわめいた。

「……つまり」

喉が、砂を噛んだように乾く。

「僕が、宇宙の因果そのものの一部に……確率の揺らぎになった、ということか?」

アマリリスは静かに微笑んだ。
その微笑みこそが、残酷な答えだった。

僕は、ようやく理解した。

僕はもう、世界を外から覗き見る神の視点ではない。
この刹那に揺らぐ、淡い粒子のひとつ。背景に溶け去る、無機質なノイズに過ぎない。

「でも……」

声がかすれ、音にならなかった。

「なんで、僕が? どうしてこんなことに?」

彼女の瞳の奥で、数知れぬ光が瞬いた。
星々の抱擁のようでもあり、素粒子の複雑な軌跡のようにも見える光。

「あなたが選んだからよ」

「僕が?」

「ええ」

アマリリスはうなずいた。
その仕草は、世界の終焉のように静かだった。

「あなたは、世界の真の姿に近づきすぎた。そして、境界を越えて“知る”ことを選んだ。……だから、外側からの観測者ではいられなくなったの」

研究室の空気が、急に現実味を失い、果てしなく広く感じられた。
僕の輪郭が、世界の彩度と共にぼやけていく。

「……じゃあ」

僕は虚空へ向かってつぶやいた。

「僕はもう、元には戻れないのか?」

アマリリスは、少しだけ考えるような、慈しむような顔をした。

それから、ゆっくりと手を伸ばす。

細い指先が、僕の額に触れた。

「戻れるかどうかは——あなたが、自分をどう“観測”するか次第ね」

その瞬間、世界が剥がれ落ちた。

床も、壁も、光も、音も。
すべてが水面のように波打ち、境界が溶けていく。

僕の身体は、確率の海の中でほどけていく。

——僕は、まだ存在しているのか?

——それとも、誰かに観測されるだけの、ただの『ノイズ』になったのか。


第三章 シュレディンガーの牢獄

彼女の指先が額から離れた瞬間、世界が崩壊した。

床も、壁も、光さえも。
すべてが無音のうちにほどけ、溶け去っていく。

僕の意識は、暗い裂け目の中へとゆっくりと、しかし確実に沈んでいった。

いや——落ちているのではない。漂っているのだ。
どこにも触れず、何にも属さず、ただそこに在るだけの「無」。

「……観測次第、って言ったよな」

声を出したつもりだった。

けれど、音は生まれない。
言葉は空間のどこにも届かず、輪郭を失って消えていく。

この世界には、僕の言葉を受け止める物理法則が、もう存在しないかのようだった。

「そう。あなたは今、“決定”の外側にいる」

アマリリスの声だけが、僕の意識の中心に直接響く。

どこから聞こえるのかは分からない。
ただ、僕の存在の核に触れてくる。

僕は自分の手を見た。

やはり、半透明だった。
輪郭はあいまいで、時折、粒子のような光となってほどけていく。

「……どうすれば、戻れる?」

言葉にならない思考を投げる。
それは彼女に届いたらしかった。

「簡単なことよ」

アマリリスは告げる。

「観測を取り戻せばいい」

観測。

その言葉が、虚無の中で妙に重く響く。

「あなたは今、シュレディンガーの猫と同じ状態にあるの。存在しているとも言えるし、していないとも言える。そのままでは、あなたの状態は確定しない」

静かな声。

僕は理解しかけていた。
いや、理解したくなかったのかもしれない。

「……つまり、僕は今、“決まっていない”存在ってことか」

「ええ。あなたは今、可能性の中に閉じ込められている」

その言葉を聞いた瞬間、凍りつくような戦慄が走った。

「じゃあ……誰かが僕を観測すれば、確定するのか?」

「そうね」

アマリリスは少しだけ間を置いた。

「でも問題があるわ」

「……何だ?」

「今のあなたを観測できるのは、あなただけよ」

僕は思考を止めた。

いや、止めるしかなかった。

意味が分からない。

「……僕が、僕を観測する?」

「そう」

彼女の声は、真空を凍らせるほどに穏やかだった。

「でも、今のあなたには『観測者』としての主観がない」

その静かな宣告は、僕という輪郭をゆっくりと溶かし、底なしの暗闇へと沈めていった。

「あなた、自分が今、どこにいるか分かる?」

答えようとして、喉が凍りつく。
言葉が形をなさない。

気づいてしまったからだ。

僕はここにいる。
けれど——ここが『どこ』なのか分からない。

空間の位置も、時の流れも、何一つ確信できない。

座標軸をすべて引き抜かれた無の空間に、漂っている。
上も下も、前も後ろもない。

世界を測る基準そのものが、僕の中から消え去っていた。

それだけじゃない。

もっと根本的な、自己存在の核が揺らいでいる。

『僕は……』

言葉にならない思考が、形を保てずに霧散する。

僕は、本当に『僕』なのか?

存在の根幹を突き崩すような恐怖が、胸の奥で音を立てて膨らんだ。

アマリリスが静謐な瞳で僕を見つめる。

「観測というのは、世界を決める行為。……同時に、『自分が自分である』と確定する行為でもあるの」

彼女の言葉が、音叉のように響く。

「でも今のあなたは、それを失っている」

理解した。

僕には今、『僕』という確固たる中心がない。
存在の定義(デフィニション)がない。

僕はただ、確率の海に浮かぶ、数多ある可能性の、ただの亡霊に過ぎなかった。

「……じゃあ」

僕は消えそうな意識を必死に繋ぎ止め、言葉を絞り出した。

「僕は、どうすればいい?」

「自分自身を、観測すること」

「そんなこと、僕にできるのか?」

「できるわ」

その瞬間。

何もなかった暗闇に、一条の光が生まれた。

アマリリスが指先で虚空をなぞると、煌めく光の粒子が数式を描き出した。

Ψ(x,t) = Σ Cₙ φₙ e^{-iEₙt/ħ}

量子力学の波動関数。
存在の可能性そのものを記述する式。

その式が意味する冷徹な現実は、あまりにも明白だった。

僕は、決まっていない。

「あなたの存在は今、確率の海を漂う、名もなき霧のようなもの」

アマリリスが静かに告げる。
その声は、重力を持たない空間で僕の輪郭を優しく撫でた。

「けれど、まだ消え去ったわけじゃない。……あなたが選べば、その泡のような可能性を、一つの『僕』として収束できる」

選ぶ。

言葉が空間に溶けた瞬間、世界は万華鏡のように開いた。

目の前には、僕の人生の断片が、無数の星のように浮遊していた。

研究室で孤独に夜明かしをする僕。
知らない街で誰かと笑う僕。
白紙の人生を歩む僕。
そして、すでに誰かの愛を失い、死を選んだ僕。

そのすべてが、僕だった。

可能性の海に漂う、あまたの亡霊。

「どの『あなた』でありたい?」

アマリリスの囁きが、僕の魂の中心に響く。

選ばなければ。

選ばなければ僕は永遠に、シュレディンガーの箱の中で観測されることのない、透明な幽霊になってしまう。

僕はゆっくりと目を閉じた。

無数の可能性が、瞼の裏で点滅する。

僕は、どの僕を選ぶ?


第四章 波動関数の崩壊

暗闇の中で、無数の“僕”が星屑のように瞬いていた。

満員電車に揺られ、擦り切れた日常を生きるスーツ姿の僕。
研究室の無機質な白い光に包まれ、数式の深淵を追い求める僕。
そして、事故の衝撃で、病院のベッドで静かに息を引き取った僕。

そのすべてを、私は見ていた。
いや、全身で感受していた。

それぞれの人生が持つ重み。
歓喜、後悔、恐怖。
万華鏡のように流れ込む他者の記憶に、自我が溶けそうになる。

「選ばなければ、あなたは確定しない」

アマリリスの声が、無限の暗闇に冷たく響いた。
逃げ場のない選択の重圧。

どれが本当の僕なのだ?
どれを選べば正解なのだ?

立ち尽くす僕の問いは、虚無に吸い込まれていく。

その時、霧が晴れるように確信した。

いや、違う。

問いの前提が違っている。

「本当の僕」など、どこにも存在しないのだ。

僕がどれを選び取るかによって、初めて“僕”という輪郭が確定する。

僕は今、この瞬間に、自分を再創造しているのだ。

胸の奥で、何かが静かに熱を帯び、定まっていく。
恐怖は霧散した。

代わりに、奇妙な確信が胸を突く。

無数の人生の中から、僕は静かに指を向けた。

研究室の孤独な灯りの中で、数式と共に生きる、あの未来へ。

「……この僕だ」

その瞬間、世界が凄まじい速度で収縮した。

無数の光が震え、可能性の海が激しく波打つ。
星屑たちが、次々に光を失っていく。

会社員の日常。
誰かと愛し合った日々。
死を迎えた静寂。

すべての平行世界が崩れ去り、ほどけていく。

残されたのは、ただ一つ。

僕が選んだ、たった一つの現実だけが、そこに揺らめいていた。

抗い難い引力が、僕の意識を深淵へと引きずり込む。

空間が幾重にも折りたたまれ、
時間が一本の線へと収束していく。

無数の可能性が閉ざされ、世界がただ一つの実在へと溶け合った。

波動関数が——崩壊する。

次の瞬間。

視界は純白に染まった。

音も、光も、感覚さえも消え去る。
無。

ただ一つ、最後に聞こえたのは、アマリリスの幽かな囁きだった。

「いい選択よ。」

僕は再び、あたたかな“存在”の渦中へと落ちていった。


第五章 観測者の眼

意識が、泥濘の底からゆっくりと水面へ浮上していく感覚。
瞼の裏に、淡い光が滲む。

——目を開けた。

視界に映ったのは、見慣れた景色だった。
細いひびの入った天井、古びた壁紙、机の上のスタンドライト。

僕はベッドの上に座り込んでいた。

「……」

口からは言葉にならぬ吐息だけが漏れ、静寂の中で呼吸の音だけがやけに大きく響く。

ここは、僕の部屋だ。

机の上には、開いたまま放置された量子力学の専門書。
数式で埋め尽くされた無機質なページを、デジタル時計の赤い数字が冷ややかに照らしている。

03:42

僕は無意識に左腕をつねった。
鋭い痛みが走る。

「……痛い」

その感覚に、妙な安堵を覚えた。

僕は、ここにいる。
確かに存在している。

自己の確定。観測。

僕は、戻ってきたのだ。

小さく呟いた、その時だった。

部屋の空気の密度が変わった。

視線を上げると、窓のそばの暗がりに、彼女が立っていた。

「おかえりなさい」

アマリリスは、静かに微笑んだ。
白いワンピースが、夜そのものを纏ったかのように静謐だった。

僕は息をのむ。

「……どうして、君がここに」

彼女は最初からそこにいたかのように、自然な佇まいで立っている。

「あなたが“この僕”を選んだからよ」

穏やかな声が部屋に溶ける。
胸の鼓動が、急速に激しく鳴り始めた。

「……まさか」

言葉が途切れる。

彼女は静かに頷いた。

「そう。あなたが戻る世界を選んだということは——」

「この世界もまた、同時に確定したということ」

僕はゆっくりと、その意味を噛み締めていた。

波動関数の崩壊。

確定したのは、僕の存在だけじゃない。
世界そのものが、一つの形をとったのだ。

無数に分岐していた可能性の海から、僕はこの世界を選び取った。

そして、この世界の彼女もまた、選ばれた。

「これが……観測者(オブザーバー)の代償か」

僕は呟いた。

彼女は何も言わず、ただ微笑みを深くした。

アマリリスは、ゆっくりと頷く。

「あなたは今、自らの存在をこの世界に繋ぎ止めた」

「けれど——」

そこで言葉を切り、彼女は微かに目を伏せる。

「これで終わりではないわ」

「どういう意味だ?」

僕の問いに、彼女は答えなかった。

ただ、糸を引くような視線を窓外へと移す。

「見て」

その一言が、冷たい風のように部屋を抜けた。

僕は重い腰を上げる。

膝がわずかに震え、足裏に伝わる床の硬い感触が、皮肉なほど生々しく「現実」を主張していた。

一歩、また一歩。

窓辺に歩み寄るにつれ、胸の奥で正体不明のざわめきが膨れ上がっていく。

僕は震える指先をカーテンにかけた。

何かが決定的に違う。
世界が歪んでいる。

そんな確信に近い予感が、心臓を強く締め付けた。

意を決し、僕は一気にカーテンを引き絞った。

その瞬間——

網膜に飛び込んできた光景に、僕は呼吸を忘れた。

そこに広がっていたのは、

僕の記憶にある景色ではなかった。


第六章 特異点の向こう側

窓の向こうに広がる街を、僕はしばらく黙って見つめていた。

見慣れているはずの景色だった。
深夜の摩天楼。冷たい影を落とす高層ビル群。遠くまで続く、音のない道路。

どれも、確かに見覚えがある。

けれど——何かが決定的に違う。

その小さな違和感は、かえって心胆を寒からしめる不気味さを放っていた。

静かすぎるのだ。

耳を澄ます。
夜の街には、本来であれば様々な音が溢れているはずだ。

遠くを走るエンジンの残響。
信号待ちのブレーキの軋み。
どこかの窓から漏れる微かなテレビの喧騒。
深夜のコンビニへ向かう足音。

だが、何も聞こえない。

街は確かに存在しているのに、
音という現実だけが切り取られてしまったようだった。

さらに奇妙なのは、光だった。

ビルの窓から漏れる光が、微かに歪んでいる。
揺れている。

風など吹いていないのに、光の粒子が水面の反射のように波打っているのだ。

まるで、この現実そのものが安定を失い、崩れかけているみたいだった。

その瞬間、僕の脳裏に、あり得ない可能性がいくつも去来した。

夜空に二つ浮かぶ月。
逆さに時を刻む時計。
街の人間が全員、同じ顔をしている狂気。
看板の文字が、この世に存在しない言語で書かれている静寂の都市。

……あり得るはずがない。

もしこの研究が失敗すれば、僕の博士課程は終わる。
そんな崖っぷちの状況で、幻覚なんて見ている場合じゃない。

「……ここは本当に」

僕は、自分のものとは思えないかすれた声で言った。

「僕の世界なのか?」

振り返る。

アマリリスは、部屋の中で静かに立っていた。
相変わらず、すべてを見透かしたような落ち着いた表情で。

まるで、この現実の崩壊が些細な事象であるかのように。

「そうね」

彼女は穏やかに答えた。

「あなたが選んだ世界ではあるわ」

そこで言葉を切り、
少しだけ冷たい光を宿した瞳で僕を見つめる。

「でも、完全に元の世界と一致しているとは限らない」

僕は眉をひそめる。

「どういう意味だ?」

彼女は迷いのない足取りで机の方へ歩み寄った。

そこに置かれているのは、さっきまで僕が読んでいた量子力学の専門書だった。

彼女は、数式が並ぶそのページを指先で軽く叩いた。

——まるで、その数式が世界を書き換えてしまったのだと告げるみたいに。

「あなたは今、“観測者”としてこの世界を再構築している」

彼女の声は凪いだ水面のようだった。
だが、その言葉が抱える重量は、僕の肺から酸素を奪うには十分だった。

僕はただ、彼女の唇から零れ落ちる言葉の断片を拾い集めることしかできない。

「観測という行為は、世界を確定させる。……でも、確定した結果が、以前の現実と全く同じであるという保証は、どこにもないの」

彼女は窓の外、凍りついたような街並みに視線を向けたまま言った。

「観測前の可能性は無限に存在する。そして、そのうちのどれが具現化するかは、完全には……制御できない」

僕の喉が、渇いた音を立てて鳴る。

頭の中で、切り離されていたはずの理論が静かに結合を始めた。

シュレディンガーの猫。

箱を開けるまで、猫は生きてもいるし死んでもいる。
観測した瞬間に、状態は一つに収束する。

だが、それがどちらになるかは、観測するその時まで誰にも分からない。

つまり——

僕が今立っているこの世界は、元の世界に限りなく近い。

けれど、完全に同一とは限らない。

「……それじゃあ」

僕は震える唇を開いた。

「ここは、パラレルワールドなのか?」

アマリリスはすぐには答えなかった。

ただ、揺らぐ街の光を見つめている。

やがて、彼女は静かに、しかし明確に首を横に振った。

「いいえ」

彼女は僕の目をまっすぐに見返した。

「これは“あなたにとって唯一の世界”。ただし——」

「それが“以前と同じ世界”であるとは限らない」

背筋を、氷の指でなぞられたような感覚が走る。

僕は改めて窓の外の街を見渡した。

静まり返った道路。
輪郭が朧げな建物。

「……どこが、変わったんだ?」

問いかけた声が、わずかに裏返った。

彼女はゆっくりと視線を戻し、張り付いたような、ほんのわずかな微笑を浮かべた。

「それを確かめるのは——」

「観測者である、あなたの役目よ」



研究棟を出て、駅前の広場へ向かう足取りは、重く、どこか浮ついていた。

針が、逆に回っている。

駅前の時計を見た瞬間、凍りついた血液が血管を逆流するのを感じた。

街を見渡す。

街灯の光。
歩道。
建物。

すべてがそこにある。

だが、何かが決定的に足りない。

喉の奥が乾く。
心臓が早鐘を打つ。

その瞬間、気づいた。

この街には——

影が存在しない。

足元を見下ろす。

……僕にも、影がなかった。

街の光がもう一度、大きく揺れた。

さっきの揺らぎなど、前奏に過ぎなかったかのように。

それはまるで、
世界そのものが何か不治の病を患い、歪み始めているかのような……

そんな、静かで恐ろしい光景だった。

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