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読んだ本
1517

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2024/04/26(777日経過)
記録初日
2024/04/26(777日経過)
読んだ本
1517冊(1日平均1.95冊)
読んだページ
463613ページ(1日平均596ページ)
感想・レビュー
1517件(投稿率100.0%)
本棚
1棚
性別
年齢
22歳
血液型
A型
職業
大学生
現住所
滋賀県
自己紹介

「なぜ」が世界を変える

一章 死んだ教室

黒板に書かれた公式を、誰も見ていなかった。

春日高校3年B組。窓の外では桜がとっくに散り、五月の風が体育館裏のネットを揺らしている。教室の中は、ノートを枕にした頭と、スマホを膝に隠した手と、どこでもない虚空を見つめる目ばかりだった。

前任の数学教師、田村が異動になったのは三週間前のことだ。

田村の授業は「板書が速く、説明がない」という様式美で成立していた。公式を写す。問題を解く。答え合わせをする。そのサイクルが三年間、一度もブレたことがない。誰も何も理解していなかったが、誰も何も困っていなかった。定期テストの範囲さえ覚えれば、点数は取れた。

「じゃあ静かにしてろ」

自習監督に来た英語の松本が教卓に文庫本を広げた瞬間、後ろの席の川島涼太は盛大なため息をついた。

「物理も数学も詰んだ。もう諦める」

隣の席の小野寺実が細い声で言った。「受験、どうすんの」

「知らん。文系にする。けど古文も詰んでる」

「それ全部詰んでるじゃん」

「そう。俺の高校生活、詰んでる」

涼太はそのまま腕に顔を埋めた。

扉が開いたのは、そのときだった。


二章 最初の五分間

入ってきた男は、教師にしては若すぎた。

三十代前半だろうか。スーツではなく、白いシャツに黒のスラックスという格好で、持っているのはチョーク一本だけだった。荷物も、教科書も、出席簿さえない。

「あ、田村先生の代わりに来た桐島です。よろしく」

それだけ言って、桐島は黒板の前に立った。

松本がバツの悪そうな顔で文庫本を閉じ、教室から出て行く。誰も桐島を見ていなかった。川島涼太も、顔を腕に埋めたままだった。

桐島は黒板を消すこともなく、静かに言った。

「一個だけ聞かせてください。サイン、コサイン、タンジェント。何のためにあるか、知ってる人」

沈黙。

「知ってる人じゃなくていい。なんとなく聞いたことある説明、なんでもいいです」

最前列の優等生、橘花が恐る恐る手を挙げた。「直角三角形の、辺の比、です」

「そう。それは正しい。」桐島は頷いた。「じゃあ、なんで人類はそんなものを作ったの?」

また沈黙。

涼太は顔を埋めたまま、耳だけ動かしていた。

「答えは、海で死にたくなかったからです」

教室の空気が、わずかに変わった。


三章 話の背骨

「紀元前の船乗りを想像してください」

桐島はチョークを持ったまま、歩き始めた。教壇ではなく、教室の中を。

「GPSもない。地図も大雑把。嵐が来たら終わり。そんな時代に、人間には一個だけ頼れるものがあった。星です」

窓際の席の女子が、スマホから目を上げた。

「北極星の角度を測れば、自分が地球のどの緯度にいるか分かる。でも角度を距離に変換するには、計算が要る。弧の長さと角度の関係。それを扱う道具として、三角比が生まれた」

桐島は黒板に、三角形ではなく、円を描いた。その円の中に、小さな船のシルエットをざっくりと書き加える。

「だからサインとコサインは、最初から『回転』と結びついてるんです。直角三角形の話じゃなかった。人間が空を見上げて、自分の位置を知ろうとした話だった」

涼太は、いつの間にか顔を上げていた。

「で、ここが大事なんですけど」

桐島の声が、少し速くなった。

「多分今、半分くらいの人が『じゃあ直角三角形の説明はなんだったんだ』って思ってる」

涼太は思っていた。まさにそれを。

「それ、正しい疑問です。答えは、円と直角三角形は実は同じものを見ている、です。円の中に直角三角形を書いてみると分かる」

チョークが動いた。円の中に、斜辺が半径と重なる直角三角形が現れた。

「角度が変わると、縦の長さが変わる。それがサイン。横の長さが変わる。それがコサイン。つまりサインとコサインは『角度が変化したとき、縦と横がどう動くか』を表してるだけ。波の形をしているのも、音が波打っているのも、交流電流がぐにゃぐにゃしているのも、全部これが理由です」

橘花がノートに何かを書き始めた。急いで、でも丁寧に。


四章 つまずく前に

桐島は一度立ち止まり、教室全体を見渡した。

「ここで絶対に混乱する人が出るので、先に言います」

涼太は背筋を伸ばした。自分のことを言われている気がした。

「サインが『縦』でコサインが『横』って、逆じゃないかって思う人がいる」

涼太はまさに思っていた。

「コサインの『コ』って、英語でco-、つまり『補角の』って意味なんです。サインの補角がコサイン。だから横なんじゃなくて、サインを基準にして、それを90度回転させた相棒がコサイン、と覚えると混乱しにくい」

川島涼太は、手を挙げていた。自分でも気づかないうちに。

「あの」

桐島が目を向ける。

「じゃあタンジェントは」

「いい質問です」桐島は笑った。「タンジェントは、英語でtangent、接線って意味です。円に接する線の長さ。縦と横の比を取ると、円の傾き、つまり坂の角度が分かる。スキーのゲレンデが何度の斜面かを知りたいときに使います」

「スキー場」と涼太は呟いた。

「そう。人類はスキー場より先に、山の傾斜を測って安全な道を切り開くために使ってた」


五章 放課後の黒板

授業が終わった後、涼太は席を立てなかった。

頭の中で何かが繋がり続けていた。サインとコサインが船乗りの道具で、タンジェントが山の傾きで、波の形が交流電流で。バラバラだったピースが、一本の糸で縫われていく感覚。

桐島が黒板を消しながら、涼太の視線に気づいて振り返った。

「何か残ってる?」

「いや」涼太は言葉を選んだ。「なんか、気持ち悪かったものが、急に気持ちよくなった感じがして」

「それ、一番いい感覚です」

桐島はチョークを置いた。

「公式って、誰かが必死に考えた答えなんですよ。問いがあって、試行錯誤があって、やっと辿り着いた形。だから公式を覚える前に、その人がどんな問いを持っていたか分かれば、覚えなくても導ける」

「導ける、か」

「数学も物理も、暗記科目じゃないです。推理小説です。どうしてそうなるのか、追いかけていくと、必ず理由がある」

涼太は窓の外を見た。五月の空が、夕方の色に変わり始めていた。

「推理小説か」

声に、どこか火がついたような響きがあった。


六章 一ヶ月後

川島涼太の数学の点数は、赤点ギリギリから学年十七位まで上がった。

それよりも変わったのは、授業中の顔だった。

桐島が何かを説明し始めると、涼太は必ずどこかで「あ」という顔をした。声には出さない。でも眉が上がって、目が少し細くなって、口の端がわずかに動く。

小野寺実はそれを「涼太の理解顔」と呼んで、いつしか自分もそれを待つようになっていた。

桐島の授業には、不思議なリズムがあった。

疑問を育てる。疑問が熟したところで答える。答えが新しい疑問を生む。そのサイクルが、五十分をあっという間に変えた。チャイムが鳴るたびに、教室のどこかで小さな舌打ちが聞こえるようになった。終わりたくない、という音だった。


エピローグ 問いを持つ人間

十一月。模試の返却日。

涼太の答案には、物理の大問に、見慣れない記述があった。

公式を使う前に、三行の説明が書いてあった。「この状況で保存されるのはエネルギーであり、なぜなら——」

採点者のコメント欄には赤ペンで一言あった。

「理解している」

涼太はその答案を、机の引き出しにしまわなかった。

桐島の授業が始まる前、机の上に広げておいた。理由は自分でもうまく説明できなかったが、なんとなく、見えるところに置いておきたかった。

扉が開いた。

「今日は慣性の話をします」桐島は言った。「まず聞きますけど、なんで止まってるものって、動き出しにくいんだと思う?」

川島涼太は、一番最初に手を挙げた。

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