自分は先日まで、世界初の社会主義国家を作った「ボリシェヴィキ革命」に敬意を払いつつも時々はソ連の悪口を言っていたスペイン共産党のお話(P. Preston, “The Last Stalinist”, Harperpress, 2014, p. 268)を読んでいた訳ですが、その「全員平等と唱えつつ実際には中心がある」というのが、「満洲語の軍歌でさえ『満日』ではなく『日満』と歌わされていた」(p. 180)事例と同じく、この本に登場する様々な政権の否定しがたい片務的な側面を表しているのではないでしょうか。
自分は先日まで、世界初の社会主義国家を作った「ボリシェヴィキ革命」に敬意を払いつつも時々はソ連の悪口を言っていたスペイン共産党のお話(P. Preston, “The Last Stalinist”, Harperpress, 2014, p. 268)を読んでいた訳ですが、その「全員平等と唱えつつ実際には中心がある」というのが、「満洲語の軍歌でさえ『満日』ではなく『日満』と歌わされていた」(p. 180)事例と同じく、この本に登場する様々な政権の否定しがたい片務的な側面を表しているのではないでしょうか。
戦争というのは華々しい戦場の冒険譚だけでなく、占領地や内地で経済活動が疎外されたり統制されたりするという側面もある訳ですが、そういった各地の経済活動の混乱についても指摘されている。特に壮絶な例として、中華民国臨時政府が寺内寿一の「日本は勝っているのに円安なのはおかしい」という経済学を無視した要求を受けて始めた(そして失敗した)円元パー政策が挙げられる(pp. 278-279)。「ブロック経済」であろうか? しかしモンゴル人民共和国がソ連の保護下で結局負債を完済した話とかとは色合いが違うように見える。
中華民国維新政府が設置した輪船股份有限公司が船舶輸送で成長したが戦線の拡大に伴い船舶が日本軍に徴用されて台無しになった(p. 365)とかは、まあ「現地人がいくら努力しても宗主国の意向がものを言う」という帝国主義のオーソドックスな一面を表している。豊葦原中津国も所詮は人間の作った普通の国に過ぎなかったようだ。汪兆銘の日中提携が天皇制にそぐわないとして退けられた(p. 416)とかも、要は日中間の和平に望みを託した親日派を大日本帝国は裏切ったというか一顧だにしなかった訳である。
まあ後はもう最初も最初の方ですけど昭和天皇が張作霖を殺害した河本大作を政府は最初「処分する」と言ってたのに軍の反対を受けて取り下げたと聞いて怒った(p. 24)という話、確か岡田啓介も回顧録で「間違いの始まり」と言っていたな。普段スターリン時代みたいな反逆の動きを見せたら地獄の獄卒が裸足で逃げ出すような目に遭う国の話ばかり読んでいるせいか、この「武器を持った集団が政府の決定に逆らえる」という状況がよくわからない。20世紀前半のスペインなんかもそんな感じだろうか。文民統制とはそれ自体が成果かもしれない。
満洲では「政党政治」や清朝を崩壊させた「国民党」を思わせる「党」という言葉が嫌われた(p. 51)とか、「万里の長城」より堅固な「防共」を築き上げると教科書に書きこんだがそれが小学生にどれだけ理解されたかは微妙(p. 228)な冀東防共自治政府、北平を帝政時代の「北京」に改めた中華民国臨時政府(p. 253)、「大民主義」を掲げ親日団体を組織したが、そもそも難解な指導原理を民衆が理解できたか、仮に理解しても支持したかは微妙な維新政府(p. 364)など、各地の政権が独自色の追求を試みた側面も指摘される。
そういった現地人に依拠した側面もまた軽視してはならない。日本の傀儡ではあるが、やはり「中国」の政府でもあった訳である。また汪兆銘のような親日派のみならず、蒋介石もまた盧溝橋事件の直後は事態の拡大を望まず(p. 250)、1940年にもドイツの仲介を受け入れる用意を示したことがあった(p. 389)というのは、細かい方向転換があったことを示している。それにしても阿片と密輸が各所で出てくるが、そういったものに彼らが手を染めねばならなかったのは、占領者の責任であろう。
あと岸信介が満洲の開発で「ソ連をモデルにした国家主義的計画経済」(p. 80)を推進していたらしい話は、以前から部分的に知っていたが活字では初めて触れた。「五カ年計画」(p. 81)はもう名前からしてそれっぽい。大政翼賛会もまたソヴィエト期ロシアを元にしているという説があるが、どれくらい彼らは「反共」を掲げながらそれを意識していたのだろうか? もしかするとそれは同じく反共ではあるが明確にボリシェヴィキをモデルとしていた国民党も同じかもしれず、二十世紀の中国と日本もまた分かちがたく結びついているようだ。