「軍紀で強姦とかは禁じられていた」って国粋主義者が言い訳するやつ、よくわかんねえんだよな。だから何なんだってのがある。「それ〔度胸試し〕を採用することを制止する思想や指導原理はなかった、ということなのではないか。まあ、少々荒っぽいが戦場だからそれくらいはやむをえない、むしろ当然だ、といった考え方が支配していたのではないか」(pp. 228-9)。日本軍の戦争犯罪は、人種差別とか報復措置とかナチス・ドイツっぽい部分もあるが、全体としてはベルリンにおけるソ連軍に「近い」気がする。大日本帝国とソ連は親戚である。
「だから加害体験と同時に被害体験を持つ人たちは、いろいろな解釈をつけて、二つの正反対の体験を納得しようと努力している。その中のひとつが、シベリアでの被害体験によって中国での加害体験を不問に付したいとする衝動であろう。……個人に対してはそこが思慮の限界である。しかし同時に、そのような解釈が全体として行われることには警戒し、反対しなければならないとも思う」(pp. 251-2)。なんと防衛省からこの本を出す際に「事実とは認めない」と文句が来たらしく(p. 234)、この本自体が表現と学問の自由を体現している。
毒ガスが風向きのせいで流した当人の日本側にも流れて来た(p. 60)って『後期日中戦争』に出てきたあれかな。八路軍については、日中戦争後も蒋介石とやり合ってた(p. 83)とか、蒋介石はできれば捨て駒にしようとしていたとか(p. 84)、連合国もしっかり日本に抵抗する勢力として注目していた(p. 133)みたいなことが書かれており、チトーのパルチザンっぽくもある。そして中国の捕虜体験を持つ人々の、中国の収容所では日本軍より待遇がよかったという話が幾度か述べられる(p. 157、p. 253)。
それはもちろん毛沢東の「軍国主義」が悪であって日本「人民」ではないという価値観に基づいていたのだろうが、それはひょっとして朝鮮戦争において米軍捕虜に対して行われた「解放戦略」の前触れだったのではないか。捕虜となった人々は、日本に帰って来てから自分が洗脳されたのではないかと公安に見張られた(pp. 158-9)そうで、そうなると俺もそういう連中と同じことを言ってしまっているのではないかとも自分で思うが、しかし毛沢東もただ優しくしたわけではなかった気がする。研究が望まれる。
他に、戦後に命令で中国に残った人々について、先に帰国した高官が「勝手に残った」と証言したせいで生活保護金をもらうのに苦労した(p. 216)という話があり、こないだ読んだオーストラリア軍に対する虐待について「朝鮮人や台湾人のせい」と答えるよう訓令されていたという話を思い出す。豊葦原中津国の文化にはこうした「強制的志願」という文化が強く根づいているようだ。というわけで俺はいかなる方向でも「選択肢を狭める」という形のアプローチが嫌いである。
「御稜威という言葉をきれいさっぱり追放しては、参考も南京虐殺も身近な苦々しい言葉として、われわれの胸の中に生き続けない。……ぼくが〔死語を〕復活させるという意味は、その当時において具体的に機能していたままに把握するということである。死語の復権という意味ではない」(p. 261)。
東ヨーロッパとか吸血鬼とか好き。(25. 11. 2020)自分が始めるきっかけになった先達の人々にページ数が追いついたので、試験的に漫画も登録開始。途中で「反則」と感じたら消すかもしれません
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「軍紀で強姦とかは禁じられていた」って国粋主義者が言い訳するやつ、よくわかんねえんだよな。だから何なんだってのがある。「それ〔度胸試し〕を採用することを制止する思想や指導原理はなかった、ということなのではないか。まあ、少々荒っぽいが戦場だからそれくらいはやむをえない、むしろ当然だ、といった考え方が支配していたのではないか」(pp. 228-9)。日本軍の戦争犯罪は、人種差別とか報復措置とかナチス・ドイツっぽい部分もあるが、全体としてはベルリンにおけるソ連軍に「近い」気がする。大日本帝国とソ連は親戚である。
「だから加害体験と同時に被害体験を持つ人たちは、いろいろな解釈をつけて、二つの正反対の体験を納得しようと努力している。その中のひとつが、シベリアでの被害体験によって中国での加害体験を不問に付したいとする衝動であろう。……個人に対してはそこが思慮の限界である。しかし同時に、そのような解釈が全体として行われることには警戒し、反対しなければならないとも思う」(pp. 251-2)。なんと防衛省からこの本を出す際に「事実とは認めない」と文句が来たらしく(p. 234)、この本自体が表現と学問の自由を体現している。
毒ガスが風向きのせいで流した当人の日本側にも流れて来た(p. 60)って『後期日中戦争』に出てきたあれかな。八路軍については、日中戦争後も蒋介石とやり合ってた(p. 83)とか、蒋介石はできれば捨て駒にしようとしていたとか(p. 84)、連合国もしっかり日本に抵抗する勢力として注目していた(p. 133)みたいなことが書かれており、チトーのパルチザンっぽくもある。そして中国の捕虜体験を持つ人々の、中国の収容所では日本軍より待遇がよかったという話が幾度か述べられる(p. 157、p. 253)。
それはもちろん毛沢東の「軍国主義」が悪であって日本「人民」ではないという価値観に基づいていたのだろうが、それはひょっとして朝鮮戦争において米軍捕虜に対して行われた「解放戦略」の前触れだったのではないか。捕虜となった人々は、日本に帰って来てから自分が洗脳されたのではないかと公安に見張られた(pp. 158-9)そうで、そうなると俺もそういう連中と同じことを言ってしまっているのではないかとも自分で思うが、しかし毛沢東もただ優しくしたわけではなかった気がする。研究が望まれる。
他に、戦後に命令で中国に残った人々について、先に帰国した高官が「勝手に残った」と証言したせいで生活保護金をもらうのに苦労した(p. 216)という話があり、こないだ読んだオーストラリア軍に対する虐待について「朝鮮人や台湾人のせい」と答えるよう訓令されていたという話を思い出す。豊葦原中津国の文化にはこうした「強制的志願」という文化が強く根づいているようだ。というわけで俺はいかなる方向でも「選択肢を狭める」という形のアプローチが嫌いである。
「御稜威という言葉をきれいさっぱり追放しては、参考も南京虐殺も身近な苦々しい言葉として、われわれの胸の中に生き続けない。……ぼくが〔死語を〕復活させるという意味は、その当時において具体的に機能していたままに把握するということである。死語の復権という意味ではない」(p. 261)。